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感覚で生きる人が疲弊するのはなぜか?

私は写真を撮るのが好きだ。

パシパシたくさん何千枚も、

被写体にもグングン近づいて撮って

飽きずに撮りまくることができる。


でも、撮り終わったあと、放置する。

写真を見返して選んだり、保存したりするのがあまり好きじゃない。

人から「写真、共有してね!」と言われるのに、

全然やる気が出ない。


それは私がものぐさ太郎だからなんだ、と思っていた。

この性格なら仕方ないのだと。


・・・

最近、構図について改めて勉強してみた。

すると撮影する際にも少しだけ感じていた「どう撮ろうか、収まりが悪いな」という時に、役に立つ知識なのだと感じた。

そうして考えると、私は写真が好きだけど、誰かに教えてもらったわけではない。これまでカメラを触って、自分の感覚にしたがって、なんだか収まりやいいとか、なんだかいい感じだと思うように撮ってきた。


それが、「センスがあるね」となまじ評価されるから、そのままにしていた。


でも、センスだけでなんでもやろうとするから疲れるのだ。

センスの放出。

センスの使い放題。


使えば、底があるわけで、ピンと張っていたセンスがシワシワに疲れてしまう。撮影後に見返したり、選んだりしたくない気持ちは、「もうセンスが疲れています」という意思表示だったのだと思う。

・・・

大事な時にセンスを発揮するために必要なのは、「知識」だった。

写真がいい感じになる知識。

これで7、8割をまかなって、迷ってわからない時には、「なんだか美味しそう、なんだか素敵そう」という感覚に従うのが、センスを長持ちさせるコツだったんだ。

・・・

朝の6時半。

目が覚めて、布団の上で軽く足を動かしているときに考えたこと。


そういえば文章もたまに褒められたりすることがあるんだけど、これも写真と同じで、ダダ漏れで書くのはいいけれども、シャンと向き合って書くのは負担に感じるんだよな。

同じ原理なんだと思う。

・・・

性格じゃない。

センスの使い方が非効率だっただけなんだ、多分ね。

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