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0時のレシピ

銀河に吸い込まれるように、煙はキッチンの窓から夜空に上ってゆく。

彼はいつも帰りが遅い。
仕事は忙しいし、睡眠も不規則だ。
だからせめて、家に帰ってきた時はきちんとした物を食べて欲しいし、向かい合って一緒に食事がしたい。

だから私は今日も料理をする。

今日は玄米粥。
深夜の帰宅だと、脂っこくて味の濃い物よりは柔らかくてホッとする物が食べたいはずだ。

玄米は消化に時間がかかるけど、彼はそんなにお腹の弱いタイプではないので、それよりは栄養をしっかりとってもらう方が大事かな、と思う。

鉄の中華鍋に玄米を入れ、から煎りする。
中火にし、焦げないように火加減をみながら、木べらで玄米を右へ左へと押しやり混ぜる。
玄米は少しだけ白くなり、その後にゆっくりと薄い焦げ茶色になっていく。
ふんわりと香ばしさが漂いはじめる。
黄金に実った稲穂が、大地を包んで広がっていくようだ。

変化をきちんと感じ取れるから、料理はいい。
食材に火を加えると色が変わり、香りが出る。
生活は、変化があってもはっきりと違いを見せてはくれない。
そしていつの間にか大きく離れたまま、取り返しのつかない地点まで進んでいたりする。

全体が濃く色づいてきたら味見。
お煎餅のようにポリポリと食べられる程度の固さになれば、土鍋に移して水を入れる。
水は玄米の3倍。
まず強火、沸騰したら弱火、水分が飛ぶまで煮詰める。
水分がほとんど無くなり、ふわふわした小さなダンゴムシが集まったような見た目になったら完成だ。

これは、普通の玄米粥とはかなり違う。
本来はもっと水を多く入れるべきなのだが、初めて作った時にうっかり水の分量を間違えてしまったのだ。

あの時は彼もキッチンにいた。

そして完成したこのダンゴムシ粥の、何とも言えない不可思議なビジュアルが何故か2人ともツボに入ってしまい、顔を見合わせて爆笑した。
何これ!ヤバ!
虫みたい!気持ち悪!
これ食べるのかよ〜!
あれ?でも結構美味しいじゃん!
悪態をつきながらゲラゲラ笑い続け、粥はすっかり冷めていき、それがそのまま定着した。
私達の間で玄米粥と言えばこれ、ということになったのだ。

玄米粥を作ると、いつもあの日のことを思い出す。

粥に添えるのは、海苔の佃煮。
これも家で作ったものだ。

彼は必要以上に買い溜めをする癖があり、乾物や洗剤など「腐らないもの」が安売りされているのを見ると、ついカゴに入れてしまう。
それで海苔も、食べ切れなくて湿気ってしまったので佃煮にしたのだ。

海苔を細かく千切って鍋に入れ、水、醤油、みりんを浸るくらいに注ぐ。
玄米粥に合わせるので、味付けは少し濃い目。
くつくつと炊かれる海苔を箸でつつく。
海苔は泡ぶくの円の形に素直に沿って、緩やかに解けていく。
そして、鍋の中でねっとりとした一つの塊になる。

でも。

バスはまだ来ない。

今日は夏野菜のスパイスカレー。
カレールウを使わずトマトとナスの水分だけで作るこのカレーは、彼と出会う前からの私の十八番だ。

オクラ、パプリカ、ピーマン、インゲン、ズッキーニ、トウモロコシ、それから玉ねぎ。
生姜とニンニクは絶対。
肉は鶏でも豚でもいいが、今回は鶏肉にした。
一度に大量に作るのが肝なので、じゃが芋は使わない。
冷凍してとっておく時に、じゃが芋だけは美味しくなくなってしまうからだ。

まず、薄切りにした玉ねぎ、みじん切りにした生姜とニンニクをオリーブオイルで炒め、軽く火が通ったらカレー粉と小麦粉とスパイスを加える。
カレー粉は市販の物をそのまま使っていて、そんなにこだわりはないのだけれど、絶対に追加するスパイスがある。
スターアニス。
ホールのまま3つ入れて、香りを強く出す。
これで、いわゆる「日本のカレー」とも「エスニックでアジアンなカレー」とも少し違う、中華の風の吹くようなカレーになるのだ。

初めてこのカレーを食べた時、彼は、変わった香りがする、これは何?と言った。
八角、スターアニス、私、中華のスパイスが好きなんだ。
そう答えると彼は、僕は特別中華が好きでもないけど、このカレーは美味しい、と言ってくれた。

彼と出会う前から持っているものを、彼が気に入ってくれたのが嬉しかった。

玉ねぎと小麦粉が馴染んだら弱火にして、焦げないようにたまにかき混ぜる。
その間に、トマトとナスと鶏肉を切る。
このカレーで一番重要なのはトマトとナスなので、とにかく大量に用意しておく。

トマトは皮を湯剥きする。
カレーに散らばったトマトの皮は、ちょっと口当たりが悪いからだ。
十字の切れ目を入れたトマトを沸騰した湯に浮かべ、冷水にとり、切れ目を手でめくる。

皮を剥く。
体を守っているものを、美味しく食べる為に丁寧に剥がす。
それは差し出した欲望とそっくりだった。
守る鎧を失うと腐ってしまう。
だからさっさと食べてしまわないといけないのだ。

腐ってしまうことの一番厄介なのは、「徐々に」ということだ。
まだ大丈夫、まだ、まだ、と思っていると、ある日いつの間にか腐っている。
その境目はあまりに曖昧模糊としているから、自分がいつ腐ったのか、きっと自分自身でも分からないだろう。

トマトはざく切り、ナスは乱切り、鶏肉は一口大。
玉ねぎがとろとろの飴色になったらスターアニスを取り出し、トマトとナスと鶏肉を鍋に入れ、塩を振ったら中火にして蓋をする。

それから夏野菜を切る。
お店だと焼き野菜が乗せてあるスタイルが多いが、私は一緒に煮てある方が好みだ。

オクラはヘタを落とし、パプリカとピーマンは種ごと細切り、インゲンは筋を取って、ズッキーニは輪切り、トウモロコシも芯ごと輪切りに。
そこまで下ごしらえが済む頃には、鍋はトマトとナスの水分で満たされている。
かき混ぜて味見をし、塩とカレー粉が足りないようならここで足す。

夏野菜をすべて鍋に入れ煮込む。
といっても夏野菜はすぐに火が通るので、そんなに時間はいらない。
それに、彼が帰ってきたら鍋は温めなおすのだ。その時にも火が入るから、今は少しで充分だ。

でも。

雨はまだやまない。

今日はニラと人参とツナのナムル。
ニラが生でも食べられるということを、彼と暮らして初めて知った。

彼は香味野菜が好きで、茗荷、長ネギ、大葉、生姜なんかを年中よく食べていた。
もしかしたら、くたびれ果てていた夏を取り戻そうとしていたのかもしれない。
だから、生でニラを食べる彼を見た時はびっくりしたが、そうやって新しい物事を知ってゆくのはとても心地がよかった。

ニラは3cm幅に切る。
人参は皮を剥き、3cmの長さの千切りにする。

人参を薄い短冊形に切り、少しずらして重ね合わせ、端から刻んでいく。
間隔を間違えないように、それだけを気にして黙々と、延々と、粛々と、包丁を動かす。
その瞬間、世界は、私と人参と包丁とまな板だけで構成される。
何もかもを追い出したミニマムなキッチン。

でも、それでも微かに残ってしまう彼の痕跡。

それをすべてボウルに入れ、混ぜる。
緑とオレンジが同じくらいの量になるのがちょうどいい。

彩りは大事だ。
人参のオレンジにアクセントをつける、対比する緑。
オレンジの補色は本来は青だけれど、青い食材というのはないし、料理においては緑が補色、ということでいいだろう。

反対のものは、お互い引き合う。
足りないところを埋め合うように。

ツナ缶はノンオイルタイプ。
水気を切ってニラと人参に加えたら、調味料を入れる。
ごま油を垂らし、塩は全体にまんべんなく、酢はキツくならない程度に。

それから黒糖を薄くまぶす。
彼は九州の出身なので、砂糖と言えば黒糖らしい。
まろやかでコクも出るし、私もすっかり黒糖を使うようになった。
最後にすりごま。
混ぜて味見をしながら、塩加減と酸っぱさと甘みのバランスを整えていく。

彼が帰ってきたら、一味唐辛子を添えて出すつもりだ。
彼はその日の気分で辛い物を好んだり好まなかったりするので、どちらでもいいように。
そのままでも、温めても美味しいので、それもどちらでもいいように。
ご飯のおかずでも、お酒のおつまみとしても、どちらでもいいように。

でも。

夢はまだ覚めない。

今日はかぼちゃの煮付け。
彼は、甘いおかずが結構好きなのだ。
かぼちゃ、さつま芋、サラダのリンゴも酢豚のパイナップルも肯定し、それでビールでも日本酒でも飲める人だ。
その節操のなさが、私は好きだと思う。

一年で一番夜の深い、今日は冬至。
彼には長生きしてほしいので、かぼちゃにしようと朝から決めていた。

丸ごとのかぼちゃを切る。
両手の平にも収まらないような大きな固いかぼちゃは、切ることが一番の大仕事と言ってもいい。
かぼちゃの中心に包丁を当て、右手に柄、左手に刃の背、交互に揺らしながら上からグッと押し付ける。
包丁の刃はだんだん、分厚いかぼちゃに沈んでゆく。
後戻りできないほどに。

まず半分、続いて四等分にする。
それからワタと種を丹念に取り除く。
柔らかいワタをゆっくりと掻き出す指先は、草食動物の内臓にかぶりつく肉食動物のようだ。

種をくり抜くと、ぽっかりと空洞ができる。
そこに何を入れられるだろうかと考える。

例えば、生命。
命の始まりが凝縮されている種を捨て、その代わりに彼の幽霊を入れる。
ゆりかごだろうか、牢獄だろうか。
どれだけの理由をつければ、彼はその中で眠っていてくれるだろうか。
その時のかぼちゃは、私が持ちきれる重さだろうか。

ワタと種を取ったかぼちゃを四角く切る。
ここまで済ませてしまえば、後は簡単だ。
味付けは酒、みりん、醤油。
この3つは、何となく適当に入れても大体味が決まる。
そんなに極端に変になることはない。

鍋底をぎっしり埋めるようにかぼちゃを詰め、水をひたひたに注ぐ。
沸騰したら弱火にし、酒とみりんを入れ、蓋をする。
5分ほど経ったら醤油も入れ、弱火のままもう一度沸騰したら煮汁の味見をする。
今日はもう少し甘い方がいいなと思ったので、みりんを足した。
また蓋をして、しばらくコトコトと煮る。
かぼちゃを竹串で刺し、火が通っていれば完成だ。

ほのかな甘み。
かぼちゃのほこほことした温かい質感は、見ているだけでホッとする。

でも。

ベルはまだ鳴らない。

彼が置いていったプレゼントは綺麗にラッピングがしてあって、その包みを解いて、ゴミ袋の一番上にかぶせる。
詰め込まれた暮らしの残骸を、柔らかく美しい包み紙で覆い、手の平で押し潰す。
重力が味方をするままに、下に、下に押し潰す。ゴミ、包み紙、ゴミ、包み紙。
何層にも重なったミルフィーユの調べ。
プレゼントをもらっているのに、ゴミ袋はどんどん重くなり膨らんでゆく。

去年の今日より伸びた髪は、そのまま彼への長さ。
ロングヘアが好きだと言った。
まだ髪は切らないで、と言った。
いつになったら切ってもいいのかは、聞けないままだった。

彼のシャツのボタンは取れかかっていて、右肩は少しほつれている。
糸では縫い留められない部分を指先で繋ごうとして、その手に触ってみようとするけれど、滑らかで温かいあの肌の本当のところは、ひどく冷たい。

毎月、通帳を記帳する。
家賃、光熱費、水道代、電気代、Wi-Fi代、各種税金の引き落とし。
彼と一緒にいるために必要な固定経費はきちんと計算しているはずなのに、何故か残高が合わない。
引き落とされる額はこの程度だろうと予測しても、いつも予想外の数字が表示される。
どうして、こんなに?

いつの間にこんなに好きになってしまったんだろう?

でも。

夜はまだ明けない。

もうすぐ午前0時。
食卓には湯気が上がる。
器を並べて、箸はきっちりと揃えてある。

でも。

観測できない流星が、彼を連れて行ってしまった。

彼は帰ってこない。















ヘッダー写真撮影地:スコットランド・フォレス

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