見出し画像

心象録音

遠くに見えるあの子の着ているスカートが、あまりに鮮やかな赤だったので、道に迷った。

いつもの散歩道をいつもどおりに歩いていたつもりが、なぜか見慣れない森の中にいる。
ついさっきまで陽炎が揺らめいて、アスファルトから湯気が立ち上るほど暑かったのに、森はすっかり紅葉していて、煤けた落ち葉が足元でサクサクと鳴った。
道というより、水のない大きな川の中にいるようだった。

赤や黄色、乾いた茶色が敷き詰められたその川は、どこまでも長く伸びていくと同時に、ずっと同じ場所で寝そべっていて、私はその撞着の中を歩いてゆく。

所在なく地面を蹴飛ばしてみる。
広く、静かで、誰もいない。

遠くに古い洋館のような建物が見える。
そのまま通り過ぎてもよかったのだけれど、ここが何処なのか分からないし、今日は特に予定もない。
こういう時は寄り道が吉だと思う。
建物は重厚なレンガ造りに見えるけれど、荘厳な飾りのついた扉はそっと押しただけで開くほど軽く、中は木造で、その木は全て真っ黒に塗られていた。

ちょっと広めの、80人以上は入るだろうか?
天井が高く、荷物のない倉のような空間で、真ん中に細長いテーブルがぽつりと置かれている。

おそるおそる近付いてみると、テーブルの上に並んでいるのは、幾つものカセットテープだった。

しかしそれは、形は確かにカセットテープなのだけれども、ふわふわの毛皮で覆われていたり、鈍く光る鱗で縁取られていたり、羽根や尻尾が生えたりしていて、音を録音・再生する、あのカセットテープには到底見えなかった。

ただ時折、空気の粒がそのリールを回転させ、キュルキュルと小さな音をたてて、何かを閉じ込めているようだった。
まるで古代生物の関節の鳴り方にも似たその不思議な音から耳を離せず、私はしばらくその場に佇んでいた。


「いらっしゃいませ」
その声にはっとして顔を上げると、アマノさんが立っていた。
彼は近所に住んでいる芸術家で、時々スーパーマーケットや定食屋で見かける。

「あれ、アマノさん。何してるんですか?」
「作品を売ってるんだよ」

「ああ、これ、アマノさんが作られたんですか」
「そうだよ、見たことなかったっけ」
「はい、作品は初めて見ました。珍しいカセットテープですね」
「そう見えるでしょ。でもこれはカセットテープじゃなくて、入れ物なんだ」
「入れ物?」

「身も蓋もない言い方をしちゃうと、ポーチとか、小物入れとか、保存用のコンテナっていうか、そういうやつ」
「ポーチ…コンテナ…すみません、あんまりピンときてないんですが、何が入るんですか?」
「ここにあるのは既製の作品だから、入れられる物がもう決まってるんだ。こっちは夕暮れ、これは夏の日の入道雲、これが雪の結晶と白い吐息」

「嘘!」
「ほんとほんと」
「そんな物を、そこに入れたらずっととっておけるんですか?」
「おけるんだよ。風景と、それ以外もセットで丸ごととっておける」
「それ以外?」
「あの時、強い風が心地よく吹いていたな、どこからかクチナシの香りがしていたな、手がとても冷たかったな、とかさ。そういう感触も全部、まとめて保存しておけるんだ」

「へえ、凄い、何だか魔法みたい。じゃ、ほんとにカセットテープではないんですね」
「いや、実は、作り方はカセットテープと全く同じなんだ。だから見た目がこうなるんだよ。ただ材料が違う。これはね、動物から作られてるんだよ」

「嘘!」
「ほんとほんと」
「だってカセットテープって、音を録音するものでしょう?」

「動物って、行動パターンや種によっての特性があるでしょ。獏は夢を食べるとか、猫は九つの命があるとか。それもいわば、録音と同じなわけ。それを応用してるんだよ」
「え、凄い技術なんじゃないですか、それって」
「技術的にはそうでもないよ、ポリエステルやプラスチックからカセットテープを作るのと同じだから。ただメインの材料を動物にしてるだけで」

「そうは言っても、やっぱり不思議ですよ。動物が雲や冷たい手の入れ物になるなんて」
「人間はさ、どうしても変えちゃうんだよね。過去に色をつけちゃうっていうか、あの時は辛かったけどいい経験だったとか、今考えるとあれは間違ってたとか、そういうこと言ってさ」
「あー、ありますねぇ」
「それは別にいいんだけどね、入れ物にするには向いてないんだよ。その点動物は、その時のことをそのままでずっと覚えてる。自分がピンクであることを忘れて、草ばっかり食べて緑色になるフラミンゴなんていないだろ?」

「なるほど、確かに。どんな動物が材料になるんですか?」
「色々だよ。メーカーや作り手ごとにこだわりや不文律があって、例えば、某大手メーカーは猿と羊を組み合わせることが多いし、俺の知り合いの作家は爬虫類しか使わない」

「アマノさんは?」
「俺はどんな動物でも使うけど、君が今持ってるのはレオパルドだね」
「レオパルド…」
「イタリア語でヒョウってこと」
「イタリア、好きなんですか」
「そういう訳でもないけど、これのデザインをしてた時にたまたまイタリア製のスーツを着てたから」
「アマノさん、いつもオシャレですもんね」
「仕事する時と出掛ける時は、ある程度ちゃんとした服を着るようにしてるだけだよ。今日みたいに、接客する時は特にね」

「このお店は常設なんですか?」
「一昨日から3日間だけ。今日でもう終わり、あと1時間で撤収だよ」
「そうなんですか。なんかすみません、お忙しそうな時に」
「いやいや、大丈夫だよ。今日はちょっと日差しが強くて暑すぎるし、皆外に出ないだろうから、もう誰も来ないよ。君、よく来たね」
「私、晴れの日の方が好きなんです。迷いやすくて」
「俺は雨の日の方が好きだけどなあ。仕事も捗るし」

「さっき、ここにあるのは既製の作品だって言ってましたけど、そうじゃないのもあるんですか?」
「あるよ、オーダーメイドもやってる。入れたい物がちょっと珍しい物だと、専用に仕立てないと入らないからね。夕暮れとか月なんかは、需要が多いから沢山作るんだけど」
「多いだろうなぁ。夕暮れの恋しさなんて、何年経っても思い出したいもの」
「ただオーダーメイドは、入れるのにも取り出すのにもちょっとコツがいるかな。慣れればどうってことないんだけど」
「なんか難しそうですね」
「そんなことないよ、それも音楽のカセットテープと同じ。俺が作ってるのは、あくまで入れ物だけ。君自身が録音ボタンや再生ボタンを押さなきゃ何も動かないっていう、それだけのことだよ」
「例えば、どういう物を入れたいってオーダーがくるんですか?」

「そうだな、えーとね、柳君分かる?」
「あー、分かります。あんまり話したことないですけど」
「柳君ねえ、初めてコレクターなんだよ」
「初めて…?何ですか?」
「何にでも絶対に、初めての日があるじゃん」
「入学式とか入社式の日ってことですか?」
「いや、そういう分かりやすいのじゃなくて、もっとパーソナルなことで」
「初めて彼がキスをしてくれた日、とか」
「それはよくある話だからなぁ。君には大切なんだろうけど、柳君はマニアだからね。それじゃちょっと違うんだよ」
「うーん…」

「最近実際に集めたって言ってたのはね、シマさん分かる?二丁目の居酒屋の大将」
「分かりますよ、私もあそこ時々行きますから」
「シマさんね、ちょっと前までポテトサラダ食べたことなかったんだって」

「嘘!」
「ほんとほんと」
「だってシマさん、もう歳も60とかでしょう?」
「ね。びっくりしたの、俺も」
「どこで食べたんですかね…」
「それがさ、凄いの。三つ屋」
「三つ屋って、あんな高級料亭?ポテサラなんかメニューにないでしょう?」
「シマさん常連だからさ。なんかのタイミングでポテサラ食べたことないって話になって、たまたまその日の賄いがポテサラだったんだって。それで」
「特別に出してくれた、ってことですか」
「そう」

「なるほどー。それは食べたくってもそう簡単には食べられないですね」
「俺や君の人生じゃ無理だろうね」
「三つ屋のポテサラってなんか凄そう…」
「いや、美味しかったらしいけど、フツーのだったって」
「だってシマさん、食べたことないんでしょ?フツーとか分かんないんじゃ?」
「時生さんも一緒だったらしいから」
「あー、それなら」
「潰したジャガ芋にキュウリとハムが入ってて、塩コショウとマヨネーズだって」
「それはフツーですね。でも絶対フツーの芋とかハムじゃないんでしょ」
「なんか特別に取り寄せてるオーガニックの芋だのハムだのらしいよ」
「やっぱり。三つ屋ですもんね、賄いもこだわってるんだ」

「うちの地元じゃ、ハムじゃなくて揚げた鶏皮だったんだけどね」
「へー、珍しいですね」
「だからさ、こっち出てきたばっかの頃は、どこ行っても鶏皮のポテサラがないのはなんでだろうって思ってたんだよね」
「美味しそうではあるけど、こっちじゃ見ないでしょうねぇ」

「ま、柳君がコレクションしてる初めてっていうのは、その時のシマさんみたいな、そういうやつなんだよ」
「確かに、シマさん若い頃からずーっと居酒屋やってるのに、まさかポテサラ食べたことないなんて思わないですもんね」
「ね、なかなかない話でしょ」

「でも柳さんはその場にいなかったんですよね?それって後からでも集められるもんなんですか?」
「ある程度ならね。柳君の希望をしっかり聞いて、その為だけに作ったオーダーメイドだから」
「作るの凄い大変そう…」
「そりゃあ多少はね。でも柳君みたいなマニアは、だからこそ頼ってきてくれるんだよ」

「私、柳さん、なーんかとっつきづらいんですよね。気難しそうっていうか…」
「俺は好きだけどね」
「アマノさんは昔から仲良いですもんね」

「だからさ、もし、柳君になんか提供できそうな初めてがあったら教えてあげてよ」
「今のところないですけど……あ、いっこあるかも」
「ある?」
「私じゃないんですけど。アマノさんが」
「俺?」

「そう。さっき、アマノさんの地元は揚げた鶏皮のポテサラだったって言ってたでしょ?」
「うん」
「私んち、魚にケチャップつけて食べるんです」

「嘘!」
「ほんとほんと」
「えー、聞いたことないよ。何それ、美味しいの?」
「美味しいとか美味しくないとかじゃないんですよね、もう。それで慣れちゃってるから…」
「地元が、ってこと?」
「いや、実家が。うちお母さんが、変な新興宗教にハマっちゃったことがあって、まぁ一年くらいですぐ抜けたんですけど、何故か魚にはケチャップっていうワケ分かんない教えだけ定着しちゃったんです」

「魚って、焼き魚?」
「いや、焼き魚も刺身も、煮魚も。鮪も鯵も、鮭もししゃもも」
「絶対嫌だよそんなの。俺魚大好きだから、超こだわりあるからね、魚の食べ方」
「だから、この話を聞いたアマノさんがケチャップの魚を食べてくれたら、初めてになるかなーって思ったんですけど」
「うーん、それだけじゃエピソードが弱いなあ。俺と君の関係って、何も特別じゃないでしょう。そこを補強しないと、柳君には引っ掛からないだろうなあ」

「そうかー。私、アマノさんのこと好きなんですけど、知ってました?」
「知ってたよ」
「ですよね。言ったことなかったですもんね」
「そもそも、会話をしたのも今日が初めてだね」
「だってアマノさん、私のこと知ってるでしょ」
「知ってるよ、8年前からずっと知ってる」
「道に迷ってここに来たことも?」
「それは知らなかった。だって君はいつも、とても真っ直ぐ歩いているじゃない」

「だからです。だから、私、ずっと迷ってるんです。さっきも言ったけれど、晴れの日が好きなのは、迷えるからです。全ての物がくっきりして、どれも輝いてみえるんです。迷っているから、涼しい顔をして歩いているんです。答えなんていらないでしょう」

「でも、君が迷っていてもいなくても、俺は君のことを、ただ『知ってる』だけだよ」
「ええ、『好き』は状態であって、答えではないですから」
「それなら、『知ってる』のも同じだね。水が透明だとか、コーヒーが黒いとかと同じ、状態だ」
「そう。アマノさんならそう言うかなって思ってました」
「俺も、君ならそう言うかなって思ってたよ」
「『分かり』ますか」
「『分かる』よ。8年間見ていたからね、君のこと」

「どうでしょう、これで、私とアマノさんの関係、特別になりました?」
「どうかなあ、あんまり珍しくないんじゃない?」
「うーん、そうかあ」
「ま、何も、柳君のために君がわざわざ珍しくなる必要はないよ」

「私もアマノさんの作品、オーダーしたいな。こういう関係の入れ物って、作ったことあります?」
「いや、ない。ちょっと難しいと思うけど、君のオーダーなら精一杯作ってみるよ」
「宜しくお願いします」
「じゃ、これ俺の連絡先。細かい希望やなんかは、また今度改めて聞くからさ」


遠くに見える彼の着ているシャツが、あまりに鮮やかな青だったので、道に迷った。

そして彼のことを、好きになって、入れ物がまだ、見つからなくて。













ヘッダー写真撮影地:東京・目黒区

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?