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見知らぬ小指

襟を立てたコートしか頼るものがない。
この冬は、誰もが、誰にも触れることができないのだ。

人類はすっかり冷えてしまった。
未知のウイルスだとか、突然変異だとか、進化論だとか言われているが、本当のところは誰にも分かっていない。

体温は「マイナス」273.15度。
それは絶対零度と同じ温度。
ある日突然、全ての人間がそうなった。

質量保存の法則がどこか壊れてしまったようで、世界中の学者が何度も実験したのだが、人類の体温はどうしても、マイナス273.15度。
熱湯をかけても、炎を当てても、どうしても。

人類の体にだけ氷河期が訪れたかのようで、死者は全世界で爆発的に増えた。
だけど、それでも生き残った人間の方が圧倒的に多かった。

生き残った人間は、誰しもが不思議だった。
どうして自分は死なないのかと。
こんなに冷たい体になって、生きている方がおかしいのに。
だが、理由は解明されなくとも、生きているのだから生きていくしかなかった。

そして、人類の冷たすぎる体と体は、触れ合うことができなくなった。

炎を当てても溶けなかった冷たい皮膚が、何故か、他人の体に触れ合うと一瞬、本当にほんの一瞬だけ、その部分が溶けて温かく柔らかい弾力の肌に戻る。
だけどそれは、まばたきをするより早かった。
次の瞬間にはマイナス273.15度の体に戻ってしまい、触れ合った肉同士は即座に凍ってくっついた。
無理に剥がそうとすると、そう。

それは、冷凍庫の中の豚肉や鶏肉と同じことだ。
薄切りにした肉を密着させて、同じサランラップに包み、保存しておいた時のこと。

凍ったまま肉と肉を剥がそうと無理に引っ張り合うと、繊維に沿ってホロホロと裂け、本来の境目ではない部分からべろりと千切れて、もう片方の肉にへばりつき持っていかれてしまう。

冷凍庫の肉は、解凍して常温になれば自然と剥がれる。
人体でもそれは同じである筈だが、いかんせんこの冬の人体は、マイナス273.15度だった。
いつまで待っても解凍はされなかった。
つまり。

一度くっついてしまった人間同士は、剥がすことができなかった。

剥がすには肉を裂かないといけないので、まだこの事態に慣れていないうちはあちこちでスプラッターが起こっていた。
体のちょっとした一部−−−指先だけとか、耳だけとか−−−その程度であれば、裂断しても血はすぐに凍って止まる。
マイナス273.15度の体温が功を奏し、命に別状はなかった。

だが、腕全体が絡み合ったり、しっかりと抱き合った状態で凍ってしまった人間は、くっついたままとても不便な生活をするか、無理やり引き剥がしてどちらかを犠牲にするしかなかった。
どちらか一方の犠牲で済めばまだよいが、大抵は両方死んだ。

それはそうだ。
恋しくて触れた相手の、肩から手の平までの半分だの、引きずる内臓だの、髪の毛をべったり纏った頭皮だの、が体にくっついた状態でまともに暮らせるやつは、そういない。
ほとんどは発狂して死んでいった。

だから人類は、離れて暮らすようになった。
どうしてか、人間以外の物なら、何に触ってもくっつかないのだった。
ガムテープも瞬間接着剤も、ひっつき虫もすぐに離れる。
だが、人間同士だけが、どうしても離れない。
離れないから、離れて暮らすようになったのだ。

人に触れられないからか、ただ単に一番保温効果のある物だからかは分からないが、毛皮のコートの需要が右肩上がりに増えた。
動物の毛皮なんてマイナス273.15度の前では役に立たないと思ったのだが、コートはある程度温かかった。
ある程度は、だ。
決定的な助けにはならない。
ただ、それしか縋る物がなかった。
キツネもミンクもチンチラも、大量に殺されていった。
僕もご多分に漏れず、ふさふさとしたロングコートを買った。

マイナス273.15度の体温は、まつ毛や鼻の中を凍らせる。
肌はひりひりと痛み、腹の底には氷の塊が沈み込む。
吐息は白を超えて、小さな吹雪になった。

コートを着て、手袋をつけ、マフラーを巻き、大きなマスクをして帽子をかぶり、眼鏡をかける。
肌が出る隙間を絶対に与えないよう、幾つもの衣類を重ねる。
服を着てさえいれば大丈夫、素肌が触れ合わなければ、くっついてしまうことはない。
勿論、頭では分かっている。
分かってはいるが、それでもやはり怖くて、人類は互いに離れることを選んだ。

僕だって心底注意していた。
体のどこかに誰かの肉をつけたまま暮らすなんてまっぴらだ。
どこかの誰かに、僕の体の一部を持っていかれるのも。

だけど、いつ、どこでそうなってしまったのか。
全く思い出せない。
ある日から僕の左の小指には、ぴたりと並んで寄り添うように、誰かの右の小指がくっついていた。
恐らく女性の指、ということ以外は何も分からない。
爪は細長く、先端が丸く整えられており、両脇には深いささくれがあった。

誰かに触れたつもりはなかった。
充分気をつけて生活をしていた。
なぜ、どうして。

病院はあまり好きではないが、この小指を剥がすために仕事の合間を見て皮膚科へ行った。
医者は僕の左手のレントゲン写真を撮り、ゴム手袋を二重にはめた手で小指を掴んで揺らし、幾つかの液体を塗って、「無理ですね」と言った。
僕も、この小指が本当に剥がれてくれるとは、そもそも思っていなかった。
駄目元だ。
けれども医者の「無理」という言葉を、諦めるきっかけにしたかったのだ。
思い通りの展開に何も心を動かされることなく、僕は病院を出た。

もう一つの小指は時間が止まったように、爪がこれ以上伸びることもなければ、ささくれも治らなかった。
千切れた指の付け根の血は固まっており、中心に白い骨が見える。

その骨は、かつて抜いた小さな白い歯、親知らずに似ている気がした。

僕は、親知らずで悲惨な目にあったことがある。
4本ある親知らずが、全てねじ曲がっておかしな方向に生えており、しかもその奥やら隙間をぬって深い虫歯が何ヶ所もできて、歯肉まで炎症を起こしてグチャグチャになってしまったのだ。

医者にかかるのが好きではないため、本当に耐えられなくなるまで放置したのもいけなかった。
近所の歯医者では対応してもらえず、紹介状を渡されて大学病院まで行った。
ここまで酷い状態だと全部抜くしかないですよ、そうしないと虫歯と歯肉の治療もできません、と言われ、4本を一気に抜いたのだ。

意識がボーッとするような麻酔をされ、手術中の痛みはなかった。
切開した歯茎からはトクトクと血が流れていたのだろうが、それもよく分からなかった。
埋まった歯をペンチのような器具で掴まれ、思い切り押され、引っ張られる。
顎や耳に響くギシギシという音に、歯は骨や神経のすぐ傍にあるのだな、と実感した。
抜歯後、記念にどうぞ、とその歯を貰った。

勿論、抜歯して治療が終わったわけではない。
麻酔が切れた後の痛みは尋常ではなく、頭から首まで全てが締めつけられるようだった。
虫歯などその他も含めて完治するまで2ヶ月はかかり、その間、ほとんど食事ができなかった。
まず、1cmほどしか口が開けられない。
そこに入れられるのは、ゼリー飲料、プリン、ポタージュスープ、ヨーグルトなど、噛まずに飲み込める物だけだった。

しかし、問題があるのは歯であって胃腸ではない。
食べたいのに食べられない、というフラストレーションに晒された僕は、当時の友人の中で一番よく食べる奴を誘って食べ放題に行った。
奢るからさ、という誘い文句に友人は二つ返事で乗ってきてくれた。
お前は何も気にせずガンガン食べてくれよ、そういうのが見たいんだ、と頼むと、普通、自分が食べられないのに他人が食べてたらイラッとするもんじゃないのか?と返された。

確かにそうかもしれないが、その時の僕は、僕の代わりに好きなだけ食べてくれる友人を見て満たされた気持ちになった。
笑顔で大きなステーキを頬張る友人は、僕の希望になったのだ。

今の僕はあの時のように、自分ではどうしようもないことで不自由を強いられている。
でも、それは僕だけではない。
世界中の全員が、同じように寒いのだ。
その混乱の最中でもどうにか仕事をし、経済をまわし、凍える体を抱えてもこれまでと変わらず暮らせるよう努力をしている。

誰かに触れることはできないけれど、「誰にも触れなければこれまでと同じように生活ができる」ということでもあった。
どのみち、マイナス273.15度の体温からは逃れられないのだ。
それなら覚悟を決めて、できる限り平穏を目指して暮らしていくしかない。

小指に小指をつけたまま、僕は生活をした。
幸い僕には、安定した職があった。
すぐにリモートワークに移行し、業務は滞りなく進められた。
キーボードをパチパチと叩く左手の小指に、あの小指がくっついている。

どうにも鬱陶しかった。
どの作業もやりづらいし、距離感覚が分からず、うっかりぶつけてしまったことが何度もある。
何より、「他人の一部が自分にひっついている」ということに、無視のできない違和感があった。

顔を洗う。
グラスを掴む。
ページをめくる。
その度に。

僕のものではない指の、深いささくれがいちいち気になり、何をするにも集中できない。

こんなに冷たい体なのに、電子機器は触れても正常に動き、飲み物も食べ物も、凍らず普通に食べられる。
蛇口、タオル、石鹸、パソコン、本、掃除機、ガラスのグラス。
全て問題なく使用でき、壊れもせず、きちんと離れる。
あの小指だけが、僕から離れない。

生活は、作業だけを書き出してみると、一見以前と変わらないようだった。
仕事、食事、掃除、洗濯、入浴、睡眠。
ただ、マイナス273.15度の体は、いつも気を失いそうなほどの寒さに包まれている。
噛み合わない歯の根を常にカタカタと鳴らす日々が、何日続いたのか数える気力もなかった。

寒さは体力をじわじわと奪う。
僕はゆっくりと、だけど確実に疲弊していった。

何を食べても、食べ物だな、という以上の認識ができない。
シャワーの温度をどんなに上げても浴室が曇るばかりで、体温は変わらない。
睡眠はただ、ベッドの上で意識を失うというだけのことだった。
それでも僕は、毎日、朝になると起きて仕事をし、食事をし、夜はシャワーを浴びて眠った。

2月のある日。
その日は物凄く久しぶりに、会社に出勤する日だった。
最後に着たのはいつだったか思い出せないジャケットを羽織り、ふさふさのロングコートに袖を通した。

僕の家の前の道路は古く、あちこちに窪みがある。
何年も前から、その窪みにお年寄りのカートが引っかかって躓いているのをよく見かけていたし、車も自転車も極端にスピードを落として走っている。
アスファルトで舗装されてはいるが、忘れ去られたように一度も修復がされていない。

だけど、この冬のあまりの寒さで、道路の窪みに溜まった水が凍るようになっていた。
人類がマイナス273.15度の体から冷気を発し続けているせいで、今年は例年に比べ極端に寒い。
窪みは結構な深さがあったので氷は分厚く、車が通っても割れることはなかった。
体よく舗装され、むしろ以前より安全になったとも言える。

その氷が。
今朝、駅に向かって歩いていた僕が何気なく足を乗せた、かと思うと同時に、割れてしまったのだ。
ミシミシ、と、パリパリ、という音が重なって、喉を潰された生き物の最期の一声のように、息苦しく鳴り響いた。
足先を中心にして、歪な放射状の線が氷の上に広がる。

僕はその場から動くことができず、しばらく真下を向いて地面をじっと見つめた。
無数のかけらに割れた氷は、季節の終わりも告げずに役目を終えていた。

途端に、限界が訪れた。

グラスの淵で堪えていた最後の一滴が、ポシャン、と落ちて溢れ出す。

頭がグラグラと揺れ、全ての空気が僕の肺に入ってくるのを拒んでいるかのようだった。

僕は海へ行く電車に乗った。
そうしないと、もうこれ以上は冷えない筈の体がもっと冷えていって、筋肉に細かい切れ目が入り、ボロボロと断ち切られ崩れてしまいそうだった。

僕は、親知らずを抜いた時のことを思い出していた。

いつか僕の代わりにステーキを食べてくれた友人のように、海が僕の代わりに泣いてくれないか、と思ったのだ。
あの友人は、人類がマイナス273.15度になってからわりとすぐに、亡くなったと聞いた。

電車が目的地に着くと、僕は迷うことなく降りた。
初めての駅なのに、何年も前からここに来ることが決まっていたかのように。

海辺の街は呼吸を忘れ、誰一人歩いていない。
人類がこの寒さになってから、海や川に近い街からはどんどん人が減っているとニュースが言っていた。
こんなに寒さが募る中で、更に水を見ながら寒々しく暮らしたくはないのだろう。
僕の足音だけがコツコツと、どこにも消えていかずに響く。

道の先にある筈の海は、道と石塀と曇り空に四角く切り取られ、小さな枠に押し込められている。
その枠に向かって一歩進むごとに、海はパノラマに近付いていく。
水流に逆らえない木の葉のように、僕は海に向かって歩いた。

一つの車も走っていない道路の目の前で、視界は突然開けた。
広がる海は、180度。
海の手前に砂浜がある。
自分の呼吸を確かめながら海を眺め、その砂浜に足を踏み入れた。

柔らかい砂は靴底を吸い込み、一歩、また一歩と踏みしめるごとに、一粒、また一粒と靴の中に入り込み、だんだん爪先を押し潰していく。
重たくなっていく僕の足取りを、海は静かに見つめている。
砂浜の上には、鳥や犬の足跡、ボートの引き摺られた跡、無数の靴跡が置き手紙のように残されていた。
確かに誰かがいた痕跡が、こんなにも残っているのに、誰もいない。

薄く削れた貝殻を踏みつける。
パン、と砕ける音が、仕返しのように小さく鳴る。

濡れた砂と乾いた砂の、色が変わるギリギリ手前で僕は足を止めた。
波は繰り返し揺れて砂を攫っていくのに、僕の足先を濡らすことはなかった。
だけど、僕からこれ以上海に向かっていく勇気もない。

水平線は海がこぼれそうでギリギリ、僕の心もギリギリだ。
バサバサと耳元を駆け抜ける風が僕を置き去りにする。

ギッ、と強く口唇を噛む。
血が流れ出る、筈だったのだ、これまでは。
今、僕の血液は、薄皮の裂け目の上で瞬時に凍り、固まるだけだ。
何度も何度も試した。
けれども口唇からは、ポロポロと赤い氷が生まれるばかりで、一向に血液なんて出てこない。
痛みばかりが溢れるのに、それを伝える術が何もない。

涙がこぼれる、筈だった。
ナトリウムの入った塩辛い水は、頬の上を流れることなく、ただの固い粒となってポトリと砂に落ちた。

家の前の水たまりは凍った。
僕の涙も凍った。
海は凍らないのだろうか。
なぜ。
適量の塩があるからだ。
僕の塩は、適量ではない。

僕の痛みは、血にも涙にもなりきれず、ただ冷たくなって深く沈んでいく。
ギリギリと胸を縛りつける糸は、もう擦り減って途切れているのに。

海風が、眼窩に眼球を押し込むように強く吹きつける。
だがそんなことをしなくても、僕の目はとっくに乾ききっていた。

誰のせいでもない。
全てを抱えながら前向きに、生きていかなければならない。
そう決めた。間違っていない筈だ。でも。

理論は理想で、実際は感情だ。
今日を穏やかに乗り越えても、明日は同じ気持ちではいられない。
同じ日々なのに、軽やかに歩いていける日もあれば、立ち上がることすら困難な日もある。

言葉にできないものを、しなくていいよと、それでも分かるよと、言ってくれる誰かがいるのは夢物語だ。
そんなことは、早く手放してしまった方がよかったのに。
ああ、僕はいつだって少し遅いんだ。
言葉も、行動も、感情も、理解も、何もかも少し遅れてやってくる。
絶望もそうだった。
そして、誰かを傷つけたことも。

あの友人は死んだ、死んだんだ。
しばらく連絡もとっていなかった、葬式にも出ていない。
僕はあの日、彼を身代わりにしたというのに。

海が僕の思い通りに動いてくれる筈がない。
そんなことすら、僕は今まで気付かなかった。
捻れたまま心を動かし続けて、引き千切れてしまったのは当たり前のことだった。

僕は大学時代、学生寮に住んでいた。
全員が共同で使う寮の大きな洗面所は、毎朝、異様に強いヘアスプレーの匂いが漂っていた。
甘さとはかけ離れた、アルコールと混ざったビニールの焼けたような、鼻の奥をツンと突くケミカルの匂い。
どうやら髪型にこだわりのある先輩がいて、その人は授業があろうがあるまいが毎日必ず髪をセットする人なのだ、という噂を聞くまでに、そう時間はかからなかった。
他の学生だってヘアスプレーやジェルくらい使うのだが、その先輩のヘアスプレーの匂いだけやけに独特で、どこで売ってるんだろうこんなの、と皆疑問に思っていた。
迷惑だよな、臭いよな、と露骨に顔をしかめる奴もいた。
しかし僕は、その匂いが嫌ではなかった。
いつか洗面所で会ったら聞いてみようかな、とすら思っていた。
だが結局、一度も顔を合わせることがないまま、ヘアスプレーの先輩は卒業していった。
顔も名前も知らないあの先輩は今、どうしているのだろうか。

誰かあの先輩の連絡先を知らないか、会ってみたいんだ。
その一言が、言えなかった。

浜辺の砂と僕の足の裏は貼りつき、そのままセメントを固めたように動かなかった。
何時間も経ったのだろうか、膝の裏は痺れて感覚を失い、肩は腕の重みでジンジンと痛む。

いつしか、水平線にはゆっくりと太陽が沈んでいた。
あの熱はもう、ずっと届かない。

テトラポッドは誰とも組み合えずに固まった墓標に見える。
ごつごつと飛び出た三角を、切り落とすことができなかったのだ。

沸騰する夕暮れは静寂に飲み込まれて消え、夜が来る。
波のざわめきだけがひたすらに聞こえる。
街灯はジジッという断末魔を残して途切れた。
何も見えない、何も。

目の前に見えるものは全て暗闇。
僕を取り囲むのはひたすらの暗闇だった。

深く呼吸をすると喉がひりつき、肺の奥まで一直線に冷たくなってピリピリと僕を引き裂く。
浅い呼吸では頭がぼうっとして、微睡みの向こうでゆっくりと死んでしまいそうになる。

夜はどこまでも深く、待ちくたびれてもう帰ろうかとも思うが、一体何を待っていたのか、どこに帰ろうとしているのか、それすら分からなかった。

家の前の道路の、あの窪み。
脆かった偽りの舗装。

知らないまま生きていけた方が幸せだったのかもしれないことを、寒さのせいで知らされている。
自分の骨の軋む音が、体内にこんなに空虚に響くのだと初めて知った。
キシリ、キシリと。

僕は何一つ決められなかった。
ステーキなんて関係なく、あの友人を誘いたかった。
話してみたかった先輩のことを、誰にも言わなかった。
医者の言葉を諦めるきっかけにした。
僕はずるくて、いつでも理由を探して蓋をした。

そしてその蓋はジリジリと重みを増して、僕をゆっくり潰していった。
雪のかぶさる屋根のように。

僕の辛いのは、歴史ではない。
ただの冬、冬の寒さだ。
それだけだ。
そう信じ込もうとしていた。
そんなわけはないのに。

風は僕の髪を絡め取っていくだけでなく、脳に指を差し込んで、思考を引っ掻き奪っていく。
風中に離散した僕の意識は、遠ざかってもう消えてしまったかのようだった。

何も見えない暗闇に立ち尽くし続け、ざわめく波の音を聞き続け、冷酷な自分の空虚を見つめ続けていた僕はふと、いつしか波打ち際まで星が来ていることに気が付いた。
何もない、ただひたすらの暗闇だと、思っていたのに。

水の揺らめきに合わせて滲む星は、ダンスをしているようだった。
僕の知らない種類の、見たことのないダンス。
幾つもの色と光に変わり、不規則にくるくると回り続ける。

遠い昔から、今までずっと。
誰のためでもなく。
何のためでもなく。

僕はそれを、美しいと思った。

美しいと思った。
それだけのことなのに、僕はそれで、ふいに、これまでとはまったく違う考えが頭に浮かんだ。

海は僕の代わりではなく、自分自身の為に泣いていた。
内包する生命や、止まない風、何度も何度も繰り返す波も、海に付属しているものはすべて、海自身の為のものだった。

だとしたら、ああもしかして、すべてはそうだったのかもしれない。

僕は確かに、あの友人を身代わりにした。
海にも、僕の代わりに泣いてもらおうと思った。
けれども海は、どこまでいっても自分自身の為に揺れていて、もしかしたらあの友人も、自分自身の為に僕とレストランに行ったのかもしれない。

踊る星が美しかった。
ステーキを頬張った友人の笑顔も、あの日の僕は美しいと思った。

夜明けの太陽を見た。
真っ黒だった海に色がつく。
足元の砂も、風も、そこにあった。
すべては誰にも遠慮せず、輝き、舞い散り、揺れていた。

地平線から昇ったばかりの太陽が眩しくて、僕は思わず左手をかざした。
ふと、小指の隣に並んだ、あの小指が目に入った。
生まれたての光が、2つの小指の爪に反射してきらめく。
それは明るい光だった。

鬱陶しいと思っていた、外したいと思っていた。
だけど、暖かい春がもしやってきたとして、本当に小指が剥がれてしまうことを想像した時、僕はちょっとだけ寂しい気持ちになった。

血は表には流れてこない。
それは僕だけが感じることだ。
そして僕の血液は、小指の持ち主を探したいと言っていた。

あの時割れた水溜りの氷は、僕を見捨てたのだと思っていた。
でも、もしかしたら、僕の四方を取り囲む壁に、少しだけヒビを入れたのかもしれなかった。

世間も世の中も、何も変わっていない。
ただ僕は、好きな色があったことを思い出した。

あの朝焼けの、うっすらとした消えそうなオレンジ色。
太陽が姿を現す時の、予感を包んだ未知の色。

凍えれば凍えるほど離れないこの小指の先に、誰かがいるのだとしたら。

ささくれに気付かないまま、彼女は死んだのかもしれない。
この右小指は、遺品かもしれない。
それでも探してみようと思った。
探してみたかった。
僕の為の探し物でも赦される。
そんな気がした。
海が自分の為に揺れていたように。


今朝も遥か遠くで、鳥の鳴き声と羽ばたきが聞こえる。
僕の住む街の、朝を告げる音だ。
目を瞑らないと聴き逃してしまいそうなほど小さいけれど、それは確かに鳴っている。
近付けばもっと大きく、もっとはっきり聴こえてくる筈だ。

方角はどっちだ。
もう一度、息を吸って。

会えるだろうか。
長い爪、赤いささくれ、永遠に変わらぬ肌色の、君に。















ヘッダー写真撮影地:アルゼンチン・ウシュアイア

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