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何もない家で見た、小さくて温かな暮らし

ガスもない。
電気もない。
電波ももちろん、届かない。
時計は、置かない。

朝は太陽の光と、あの人が豆から挽いて淹れたコーヒーの匂いで目が覚める。

あの人が火を焚べて焼いてくれた、トロトロの目玉焼きとベーコンの乗ったトーストを食べる。

朝は少し寒いので、毛布をひざにかけて、本を読む。世界地図を一緒に眺めて、行きたいところに印をつけてみる。

陽が高くなると暑くなって、目の前にある湖に飛び込む。凧をあげたり、絵を描いたり。少し疲れたので、ハンモックに寝転んで、本を読む。そうしたらあの人が奏でるぎこちないヴァイオリンの音色が聞こえてくる。そう思っているうちに、いつのまにか、眠りに落ちる。

テーブルが古くなっていたので、新しいのを作ることにした。大きな木を拾ってきて、ノコギリで切って、釘を打って、最後には、わたしたちの名前を彫る。

夜ごはんには、唯一のご近所さん、生物学者の彼を招く。彼が庭で育てている野菜を、お腹いっぱいに食べる。

陽が沈んでしまうと、火を焚いて、それを囲んであたたまる。地面に寝転んで、信じられないほどたくさんの星を眺める。中に戻って、ろうそくの灯りでトランプをする。そしてろうそくの灯りを消して、眠りにつく。

そしてまた、太陽の光とコーヒーの匂いで目を覚ます。

コロナ前、一年間カナダに留学したときの話。近所に住んでいて、毎日一緒に遊んでいたAnais家族が、離島にあるコテージに連れて行ってくれた。たった1週間だったけど、1年間の留学生活の中で、いちばん色濃い思い出だった。

あんなにゆっくりと時間が流れていると感じたのは初めてだった。それまでは、自由を求めて、買ったり、励んだり、費やしたりしていた。それなのに、いままでで最も自由を感じたのは、この何もない家でのことだった。

たくさんのものに囲まれて、めまぐるしく時間に追われて生活していたわたしの「当たり前」がひっくり返った、そんな体験。

何もないけど、大切なことを思い出させてくれた、そんな小さくて温かい暮らしのお話。

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