やりたいことは必要か

来月末で会社を退職する。

本来なら次の仕事を早く見つけるため転職活動に注力しなければいけないのだが、自分のやりたいことが分からないまま闇雲に行動すると意義の無い仕事をする羽目になり、また心が疲れてしまうのではないかと思うと動けない。

それとも、それはただの言い訳で本当は何もかも面倒なだけかもしれない。自分の本心が分からないので、困っている。

何でもいいから自分にできそうな仕事をする?
パートタイムの仕事+副業に挑戦してみる?
パートタイムの仕事だけして自由な時間をもっと増やす?
もういっそ働かないでおこうか?

現実的かどうかは一旦置いといて、これらの選択肢の中から自分の心が一番求めているのはどれだろうと考えても、どれもしっくりこない。

どれを選んだとしても、自分の心が満たされる未来を想像することができない。

実は、選択肢はまだもうひとつある。


やりたい仕事で生きていく


これだ。
恐らく誰もが一度は考えたことがあるだろう。

就職活動をするとき、誰しも「自分は何がやりたいのだろう?」と考え、試行錯誤した結果、今の会社で働いているのではないだろうか。

この「やりたいこと」が自分は本当に分からなくて、最近はもっぱら自問自答したりYoutubeの関連動画を見たりしている。

その結果、色々とアイデアが浮かんだことはある。

「自分はnoteで記事を書くことが楽しいから、ブログに挑戦してみるのもいいかもしれない」と思ったことがある。

得意かどうかはともかく、文章を書くことで頭の整理ができるし比較的楽しんでやれているから何とかこれを仕事に繋げられたらいいのではないか、と。

そこでふと分からなくなる。

もしブログを少しでも仕事に繋げようと思うと、自分の思うまま好き勝手に記事を書いても誰も見ないだろう。それより、有益な情報や人を楽しませることができる記事を、ある程度決まった手法で書く必要があるのではないだろうか。

つまるところ、自分の興味のないことでも書いていく必要があるのではないかと思った。。今の仕事に興味が無く、さらには決まりきったことをしないといけない状況下で病んでしまった私としては「それではまたしんどくなってしまう、それはやりたいことではない」という結論に至った。

自分がnoteを楽しんでできているのは、自分が自分の思うままに気持ちを書いているからだ。自己満足でやっているからだ。

別に誰に見てもらおうと思ったわけでもなく、ただ自分が書きたかったから始めただけだが、一人でも誰かが読んでくれたりハートをくれたりするのは本当に嬉しい。

「自分がやりたいことをやる」→「その結果、ハートがもらえた」

この順番なら嬉しいし続けられるのだが、

「ハートが欲しい」→「ハートが集まりそうな記事を書く」

こっちの順番だと、楽しくないし続かない。
そして何より心が疲れる。

世界一やさしい「やりたいことの見つけ方」
という本の著者である八木仁平さんは、Youtubeの動画でこんなことをよく言っている。

「まずは自分のやりたいことに確信を持つ。そのやりたいことを実現させるための”方法”を考えるのは後なんですよ。」

私のようにやりたいことが分からない人には、彼の動画をおすすめしたい。ハッとさせられる考え方を教えてくれる。

ただ、最近気付いたのだが私はまた同じ過ちを犯そうとしている。

自分は今まで「手に職を付ける"べき"だ」とか「もっと勉強して存在価値を高める"べき"だ」とか「〇〇すべき」という考え方に囚われていた。自分でも気付いていなかった。八木さんの動画を見て気付かされた。

そこから「やりたいことを見つけるぞー!」としばらく意気込んでいたのだが、やりたいことが見つからないまま時間が過ぎていくと「やりたいことで生きる"べき"だ」と「やりたいことを見つける"べき"だ」という「〇〇すべき」思考にまたすり替わっていた。

恐らく、それが原因でまた少し疲れてしまった。

なので、今は無理にやりたいことを見つけようとしていない。まずは自分の心を満たすことに集中して、エネルギーを十分に溜めたい。そこから何かアイデアが浮かんでくるかもしれない。

のんきなことを言っているようだが、自分の心がそう感じているのであれば、誰がなんと言おうとそれが正しい。

ゆっくりお風呂に入って、ベッドの上でだらだらしたい。
それが最高じゃないか。









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