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雨ふって、心ひろがる

大雨が降ると安心する。山奥のダムに、水が流れこむところを想像する。小学生の頃だったか、雨がなかなか降らなくて、テレビが毎日のように貯水率を報道したことがあった。水不足。節水。ヘリから空撮された乾いたダムは、僕を随分不安にさせた。以来、シャワーのような降水があると、安心するのである。線状降水ナントカ。天気図で水色、青、紫、赤の雨雲が、日本列島を舐めるように北上するのを見ているとワクワクする。思わず地方に目が行く。ダム、溜まってんなーと。一度ダムを連想すると、山、豊かな自然と意識が移り、ちょっとだけ、現実から意識が離れる。そうだな、いま僕が住んでる街は、見えている範囲は世界の一部に過ぎないんだな。写真展で見た照葉樹林や、棚田や、渓流。住んだことのある田舎町も、いま同時にちゃんと存在してるのだ。そいつら諸々に、等しく、ざあざあと、雨が降っている。人々も同時に存在している。会ったことはないけど、好きな歌手や作家。いまこの時代に生きている人たちは、全員ちゃんと世界のどこかにいる。そいつらにも等しく、ざあざあ雨が降っている。大雨はなんか、自分と、知らない世界を、繋いでくれるような感じがする。行ったことのない場所、あったことのない人。みんなの上に降るもんだから。同じ月をみてる、みたいな表現もあるけど、月は見る、という意志と、行為がないと共有されない。だいたいの人は月なんか見てない。虫や熊や微生物が月を認識できるか、知らない。海や山やスカイツリーが月を見ているという実感もない。そのてん雨は、海にも山にも降ってきて、花もカブトムシも、都庁もお寺も、人々も僕も、等しく濡らしていく。月は毎日浮かんで、ほとんど視覚でしか認知できないが、雨は、様々な五感を向こうから刺激してくる。僕は外を散歩したり、しにくくなる。けど、窓の外で、ざあざあ音を立てる雨をみてると、世界のあちこちや、人々のことを改めて思い出す。狭い部屋のなかで、心が広がっていくのであった。きょうは予めメモしてた話と、ふとおもったこと、いっしゅん迷って、後者で書き始めた。感覚的に、ふとおもったことのほうが、書きたいことだから。予め用意したテーマは「頭で考えてる」感じがする。頭で考えて書きたい日もあるけど、ただ、ふと思ったことを、頭で考えずに、書いてみたいときもある。とりわけ、土曜の朝なんかは。土日休み。月曜に大事な報告があって、まだ何も用意が出来ていない。休みであっても、家事と育児で、自分の時間なんて平日より少ない。仕事するなら、早起きして家族が寝てる間にしなきゃいけない。訳だが、朝は文章を書くと決めている。書き終わって30分もすれば、家族が起きてくる。日曜、3時くらいに起きたり、月曜、2時くらいに起きないといけないかもしれない。結局それも出来ずに月曜、マジックペンでなぐり書きした企画書で場を凌ぐ未来も、容易に想像できる。今日は日中晴れるようだ。雨上がり。気持ち良い土曜の朝。こんなときに仕事のこと考えるなんて、ぜったい間違ってる。どうせやらないから、きょうは考えるのを止める。休みだ!1281文字

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