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【短編小説】 心温計

 朝起きると零度だった。布団の暖かさでプラス二度。私はアラームを止めて、そのままSNSを開いた。
 次々にスマホの画面に映る幸せそうな友達。マイナス三度。刻々と迫る時間に追われるように布団を出て服を着替える。マイナス四度。鏡に映る浮腫んで冴えない寝起きの顔。マイナス五度。それら全部でマイナス十度。これが今日の私のスタートライン。
 物に温度があるように、心には温度がある。私の心は冷え性だった。
 昨日のおかずを温めて朝食をとる。一人暮らしの部屋には私しかいない。黙々と口に運ぶご飯は温かいけれど、暖かいとは言い難い。プラスマイナスゼロで、心温計の針は動かない。
 朝の占いは三位だった。飛び抜けて良くはない。でも順位は上の方だ。運気が降下する一方というわけでもなく、これから先の上昇に期待ができる絶妙なポジション。プラス二度。
 朝の満員電車は憂鬱。マイナス十五度。会社に着くとデスクに雑用仕事が集まっていた。何かと尋ねると、「簡単だし誰がやっても変わらないからやっておいて」と目も合わせられることなく言い放たれた。
 誰がやっても変わらないものに囲まれている私という存在は、毎日毎日そこに居ても、誰の中にも居ないのと同じような気がした。マイナス七度。

 ああ、寒い。どうしよう。

 私は財布を手に席を外して、自動販売機へ向かった。そこには私のお気に入りのココアがある。一度ココアを飲んで、暖をとろう。私は寒さをなんとか誤魔化して、今日一日を乗り切らなければならない。
 自動販売機の前には営業部の佐々木くんが居た。彼は同期だったけれど、あまり深く関わったことはなかった。何でも上手くこなせてしまうらしい彼の噂は耳にたこが出来るほど聞かされている。その彼の器用さや明るさ、社交的な雰囲気が、私は少し苦手だったのだ。
 きっと彼は私のように寒さに耐えきれなくなることはないだろう。仕事も生きることも、全力で楽しんでいるに違いないのだ。
「お。久しぶり。お疲れ」
 順番待ちをする私の顔を見て、佐々木くんは「意外な客が来た」という顔をした。
「うん、お疲れ様」
 当たり障りない私の反応に彼はニッと営業スマイルを見せて、缶コーヒーを手に自動販売機の横の粗末な椅子に座る。居心地が悪い私は早く目的を達してこの場を去ろうと、小銭を入れて自動販売機のボタンを押した。
「元気?」
 缶が落ちた時、佐々木くんが私にそう聞いた。
 無理にでも話題を作りたくなってしまうのは営業マンの性なのか。喋っていないと落ち着かないだけで、実際は何を話したいわけでもないのだろう。そう思って彼に視線を移すと、彼はへにゃっと締まりのない笑みを私に向けた。目の前に居る彼は私のイメージしていた彼よりも背中が丸まっていて、身長のわりに小柄に見えた。
 私は、彼に限ってそんなことはなさそうだと思いながらも、ふと浮かんだ疑問を素直に口にした。
「『元気?』って聞く人は『元気?』って聞かれたい人だと思ってるんだけど。佐々木くんは元気?」
 彼は一瞬きょとんと私を見つめた後、苦笑いをした。
「……鋭いな。俺だって元気じゃない時もある」
 彼が漏らした言葉は、心温計の針を揺らした。
「珍しいね。愚痴でも聞こうか?」
 自分の口をついた台詞に自分で驚いた。こんな台詞は、今まで一度だって口にしたことがなかったから。
 いや、どうしようか。私より仕事の出来る彼の愚痴の消化の手伝いが出来るほど、私は出来た人間ではないのに。勢いに任せてつい、かっこつけてしまった。
「別に何も珍しくない。こんなのはしょっちゅうだよ」
 内心ハラハラしている私をよそに、彼はのんびりと天井を仰いだ。
「んー……そうだなぁ」
 数十秒ほどそうして考える仕草をした後、佐々木くんは突然、悪戯を企む子供のような歪な笑みをその整った顔に浮かべた。それは不自然なほどに自然な彼お得意の営業スマイルではない。初めて私に向けられた、彼の彼らしい表情だった。
 長い間冬眠していた私の好奇心が、目をこする暇すら与えられずにいきなりお湯を浴びせられたような気持ちになった。私は小さく息を吐いて、むずむずと体の中で膨らむ息苦しさを逃した。
 佐々木くんは言葉を続ける。
「じゃあ金曜の夜、空いてる?」
「金曜日?なんで?」
「なんでも。いい?」
「いや、うん、いいけど……え?」
「うん。じゃあそういうことで。また連絡する」
 彼はぐっと伸びをして立ち上がり、「なんかやる気出てきたわ」と、私の背中をポンと叩いて言った。私は上手く状況が飲み込めていなかったけれど、どうやら彼と出かける約束をしたのは確かなようだった。
 去って行く背筋の伸びた彼の後ろ姿は、さっきまでの緊張感に欠けた雰囲気が嘘だったかのように凛々しい。あれは私の知っている、イメージ通りの佐々木くんだ。
 さっきのあれは、一体何だったのだろう。
 別人みたいな彼の表情は、当分の間私の頭から離れてくれない予感がした。私の背中に、彼は触れた。その手は想像よりもずっと大きかった。私と違う、骨張った、力強い手のひらだった。
 一度逃したはずの息苦しさがまたむずむずと膨らんで喉元まで迫り上がり、私は小さく息を吐いた。

────プラス五十度。

 頭の中に響いた声にハッとする。自動販売機から取り出したココアは、随分とぬるく感じた。
 

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