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人間のステ振り

わたしは不測の事態はもちろん、やると分かっていても実際に行うとなると頭が真っ白になったり棒立ちになってしまったり言葉に詰まることがよくある。分かりやすく緊張しやすく、あがり症である。
人と直接関わっていく職を目指しているので課題だよなと、数年前から常々思っているし実際に課題だよねと言われる。

その為に何が必要なのかと考えた時に
「そういう性格であることを受け入れて、他の人より事前の準備をしっかりしよう」
といった旨のことを言われる。わたしもそこは同意である。できない部分は時間をかけてカバーするしかない。そこは痛感し、重々承知した上でいつも考えてしまう事がある。

わたしがその準備のために他の人より倍かけている時間は他人は何をしているんだろう?と。

これはただの僻みだとか、愚痴だとかそれくらいの気持ちで聞いて欲しい。
他の人より何倍も何倍も時間をかけて肩を並べられるレベルにやっとなれる。そんな自分がどうしてもとってもとっても劣った人間に思えてしまって、辛くなる。

わたしはどんな人も100のポイントを持って、100の数値を何かの能力に全て振り分けていると思う。それは生涯減ることも増えることもない。そしてたまたま今までのわたしの生き方によって、わたしの「実践力」の部分が他の人より低いのだと思う。能力の数値は常に変動していて、低い部分は時間をかけて準備をするなり努力することでカバーできる部分もあるだろう。わたしが持つ他の能力を削るか、他の能力から派生し包含する場合も有り得る。
そして人々と共通する能力やその人固有の能力もあり、振り分けた数字が高いものや、固有のものがその人の「個性」となり、その個性を生かすも殺すもその人次第である。

わたしが「実践力」に振り分けなかったポイントは一体どこにいったのか?私はその分何を得ていたのか?さらに他の人は「実践力」を得ている分、どこのポイントが低いのか?とまで考えてしまう。
他人と自分を比べる必要がないのは分かっている。粗探しのようなことなど無駄なのは分かっている。きっとわたしに言ってくれた人も「わたしが劣っている」と比較を主として言っていたりはしないだろう。

なら、「準備を他の人より時間をかけてやろう」と言う言葉は訂正すべきではないのだろうか。
「他の人より」と比べているくせに、きっと聞けば「比べる必要はない」と言うのだろう。
あの言葉だけだとわたしはただの劣った人間としか思えないのだ。無責任すぎやしないだろうか。今のところマイナスだ。
他の人より時間をかけてやらなければならないことがあるなら、他の人より少しだけでも優れている部分はないのか?その分すらマイナスの要素になったのか?
マイナスの事については他人と比較する言葉を使うのに、プラスの事については他人と比較しない。
ただもちろんというか、人を踏み台にして褒められたい訳では無い。だからもう最初からそんな他人と比較するような評価をしないで欲しい。そんな評価のされ方じゃ何を言われても嬉しくない。わたしという「個」のための言葉が欲しい。ただそれだけなのだ。

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