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『日本書紀』の神功皇后紀に、『魏志』倭人伝の記述があるので、調べてみた。

私から

 『魏志』倭人伝に出てくる、倭の女王「卑弥呼」が、『日本書紀』に出てくる「神功皇后」と同一人物であるという説を伝聞しまして、『日本書紀』ではどう書かれているか気になったので、調べてみました。今回はAIは使っていません。

『魏志』倭人伝での、「卑弥呼」の記述

 私が調べたところでは、『魏志』倭人伝には、「卑弥呼」の記述は5カ所あります。

1 倭国が戦争状態であったので、「卑弥呼」という女子を王にした。非常に高齢で、弟が国を治めるのを助けていた。年代は書いていない

2 西暦239年6月。「倭の女王」が魏に使いを送る(卑弥呼とは書いていない)。同年12月、魏は詔書を書いた。このときの詔書に「親魏倭王卑弥呼」とあり、金印紫綬を与えた。翌年240年、倭王に授けた。

3 西暦247年に、倭の女王「卑弥呼」は狗奴国と戦争状態であると説明した。ここの記述は『日本書紀』には無い。『日本書紀』ではこの年、百済と新羅が倭に朝貢したことのみが書かれている。

4 「卑弥呼」が亡くなる。年代は書いていない

5 「卑弥呼」の宗女である「壱与」を王と為した。年代は書いていない。

『日本書紀』に「卑弥呼」の文字はない。

 『日本書紀』には、「神功皇后」の記述はありますが、「卑弥呼」という文字はありません。
 『日本書紀』の中には、『魏志』倭人伝からの引用もありますが、その中でも「卑弥呼」という文字はありません。

1『日本書紀』神功皇后39年の記述

卅九年、是年也太歲己未。
魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。」

現代語訳

 神功皇后39年、この年は、太歳(たいさい、木星のこと)は、己未(きび、つちのとひつじ)の位置にあった。
 『魏志』には、魏の明帝(めいてい)の景初3年6月に、倭の女王は大夫(たいふ、高官のこと)である「難斗米(なしめ、なんとまい、人名)」らを派遣し、帯方郡に至って、天子に詣でて朝見することを求めた。帯方郡の太守(たいしゅ、郡の長官のこと)の鄧夏(とうか)は、役人をつき添わせて、京都(けいと・洛陽のこと)に至らしめた」という。

解説

 木星の位置を書いたのは、『日本書紀』と『魏志』で、年代を合わせるためらしい。
 神功皇后39年=魏の明帝の景初3年=西暦239年

2『日本書紀』神功皇后40年の記述

卌年。魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。」

現代語訳

 神功皇后40年。
 『魏志』には、「魏の正始(せいし)元年に、魏は「建忠校尉」という地位にある武官の梯携(ていけい)らを派遣して、詔書や印綬を奉って、倭の国に至らしめた」という。

解説

神功皇后40年=魏の正始元年=西暦240年

3『日本書紀』神功皇后43年の記述

卌三年。魏志云「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」

現代語訳

 神功皇后43年。
 『魏志』には、「魏の正始4年に、倭の王は再び使者の大夫である伊聲者(いせいしゃ)・掖耶約(やややく)など8人を派遣して上献した」という。

解説

神功皇后43年=魏の正始4年=西暦243年

4『日本書紀』神功皇后66年の記述

六十六年。是年、晉武帝泰初二年。晉起居注云「武帝泰初二年十月、倭女王遣重譯貢獻。」

現代語訳

 神功皇后66年。この年は晋の武帝の泰初2年である。
 晋の『起居注(ききょちゅう)』という書物には、武帝の泰初2年10月、倭の女王が何度も通訳を重ねて、貢献したと書いている。

解説

「泰初(たいしょ)は、実際には「泰始(たいし)」
神功皇后66年=泰初2年=西暦266年
『魏志』ではないが、中国の書物には「倭の女王」とあるのを引用している。

5『日本書紀』神功皇后69年の記述

六十九年夏四月辛酉朔丁丑、皇太后崩於稚櫻宮。時年一百歲。

現代語訳

 神功皇后69年の夏、4月17日、神功皇太后が稚桜宮(わかざくらのみや)において崩御された。100歳であった。

解説

 ここには『魏志』およびほかの中国の書物からの引用はない。
 『起居注』に、西暦266年に「倭の女王」の記述があるので、「倭の女王=神功皇后」は、西暦266年より後に崩御する必要があった。
 『魏志』倭人伝には、「卑弥呼」が亡くなった後「壱与」を新たに女王に立てたと記述がある。卑弥呼→壱与。
 『日本書紀』では、神功皇后の次は「第15代応神天皇」である。翌年の即位なので、西暦270年即位となる。神功皇后→応神天皇。

おわりに

 「神功皇后」が「卑弥呼」であるという直接の記述はありませんが、『日本書紀』では「神功皇后」と「倭の女王」を関連付けて書いています。
 何が正解で真実なのかは、わかりませんが、まったく無関係ならば、『魏志』からの引用を記す必要も無く、かといって同一人物だと決めつけることも出来ません。
 『魏志』倭の女王=卑弥呼
 『日本書紀』倭の女王=神功皇后
 しかし卑弥呼≠神功皇后
という図式でしょうか。
 歴史学と考古学は違うものですが、今後の考古学に新しい発見があれば、真実が明らかになるのかもしれません。

(注)
この文章は、私が独自に調べてみたものです。私の調査は必ずしも正しいとは限りません。重要な情報は確認するようにしてください。

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前田拓
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