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「ハンバーグ定食」

信じられない
時子はテーブルを挟んで目の前に座る郁夫を見て呆れつつそう思った
「ねぇ、なんで今日呼び出したかわかってる?」そう言いながらいましがたオーダーを終えメニューをテーブルの隅にあるメニュー立てにたてかけようとしている郁夫を睨みつけた
「ん、なんとなくは..」メニューを戻した郁夫は時子の睨みつける目力に圧倒され殊勝な面持ちで小さく返事をすると先ほどウエイトレスが持ってきたお冷やを一口だけ口にした
約二年間の同棲生活を郁夫のギャンブル癖を理由に先月解消し、合鍵を返して貰うため一月振りに郁夫と連絡をとり喫茶店で会った時子の前で、郁夫はテーブルに着くなりお冷やを運んできたウエイトレスに「ハンバーグ定食」と注文したのだった
「今日、別れ話になるかもしれないのよ?いや、そう思って呼び出したのよ。それをあなた、ハンバーグ食べながら聞くつもりなの?!」
テーブルに左肘で身体を支えながら右手の中指をトントントントンとスタッカートを刻むように打ち付けるのは幼少期にピアノを習っていた時子が苛立っているときの癖だ
「いや、話しが長くなるかなと思って..」相変わらず時子の目力に圧倒されてる郁夫は目を合わせることもできずテーブルに残るお冷やの滴を追うように目を泳がせるしかなかった
煮え切らない態度の郁夫を見て時子は「話しが長くなるかどうかはあなた次第よ、とにかく鍵を返して!」と右手を真っ直ぐ差し出した
時子に促され仕方なくすごすごと鍵を渡す郁夫を見て「あれからどうしてたの?」と、ほとんど身一つで部屋からほっぽりだした郁夫のその後を聞いてみると「ゆうじのとこにいた。カナちゃんがいるから部屋には泊めてもらえなかったんでゆうじの車で寝泊まりしてる」と何度かお冷やを飲みながら郁夫は応えた
ゆうじは郁夫のバンド仲間で彼女のカナちゃんともときどきお茶したりと時子とは親しい間柄だ
「じゃぁ、いまはゆうじくんのお世話になってるわけね」「うん」
所在なげに応える郁夫に時子は苛立ちを隠せず「あなたも働きなさいよ、ゆうじくんだってバンドしながらちゃんと仕事もしてるでしょ」と突っかかるように話すと郁夫は「ゆうじは曲を書いてないから楽なんだよ、バンドで演る曲とか詞とかぜんぶオレが書いてるから」「だから何よ?」時子が苛立って聞き返すと
「働いてたら詞が浮かんだときとかすぐに書けないだろ?その瞬間書き始めないとダメなんだよ、詞とか曲とかって」
「何よ、アーティストぶって!詞や曲ができてもあなたはご飯や家賃を一つも生み出せないのよ!人は生きてくためにご飯が必要なの!雨風しのぐため部屋が必要なの!あなたはなんにも生み出してないの!!」芸術家を笠に着た郁夫の言い訳にカチンときた時子が一気にまくし立てると、ちょうどそこへウエイトレスがハンバーグ定食を持ってきた
テーブルの上へ一通りのセッティングを終え「お待たせしました」とひと言残しウエイトレスが去ると、熱く焼けた真っ黒な鉄板皿に乗せられたハンバーグがジュゥゥゥっと美味しそうな音を立てながら差し向かいで座る二人の間に白い湯気を上らせていた

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