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ミカンのお屋敷

 家に戻る途中、とある屋敷の前を通りかかる。庭にはミカンの木が立ち並び、黄色く色づいたミカンを、たわわに実らせていた。
 固く閉ざされた鉄格子の間から顔を覗かせ、なんとかしてあれを取ることはできないだろうか、と思案する。
 すると、ガラガラと音を立てながら正門が開いた。中から、きちんとした身なりの使用人が現れ、つかつかとわたしの前まで歩み寄る。
「もしよろしければ、お屋敷のほうへどうぞ、そう主人が申しております」使用人はぺこりと頭を下げた。
「いいんですか? じゃあ、お言葉に甘えて……」わたしは大喜びで、使用人のあとについて、中へ入っていく。

 庭は広く、突っ切るのにたっぷりと5分はかかった。きれいに刈られた芝は青々とし、ところどころにミカンが転がっている。
 玄関の扉を、使用人がカチャリと開けてくれた。扉の隙間から、ミカンの香りがぷうんっと溢れ出す。
「さあ、お入り下さい」入り口に立ったまま、使用人が促した。
「お邪魔します」わたしは足を踏み入れる。若葉色をした長毛のラグが心地よかった。
 エントランスだけで、10畳はありそう。中央に大階段を構え、踊り場のシンプルなガラス窓から、日の光が差し込んでいる。
 2階からゆっくりと下りてくるのは、緑色のガウンをはおったパンダだった。
「ようこそ、グリーン・バンブーへ」開いた口からは、明瞭なテノールが音楽のように漏れる。グリーン・バンブーとは、この屋敷の屋号らしい。
「えーと、あのう――」わたしは言葉をつかみ損ねた。相手が本物のパンダなのか、それともパンダのコスチュームなのか、判断に迷ったためである。

「ああ、これは失礼。わたしの姿を見て、戸惑っておいでなんでしょう? 一応、断っておきます。これは着ぐるみです」パンダはそう断言した。
「なんだ、そうだったんですか」わたしはホッとして、再度、相手をよく見つめる。ひくひくする湿った鼻先、かすかに揺れ動く黒い耳、説明がなければ、とても作り物とは思えなかった。
「わたしは、この家の主で、テンテン・テマリと申します。あなたは、この町の方ですかな?」
「あ、はい。3丁目に住んでいる、むぅにぃといいます。たまたまここの前を通りかかり、ミカンがなっているのを見たものですから。この時期にもできるものなんですね」わたしは答えた。
「ええ、わが家自慢のミカンなんですよ。わたしと、わたしの家族はミカンが大好きでしてね」テンテン・テマリはニッコリと微笑む。「さあ、『ミカン部屋』へとご案内しましょう。お好きなだけ召し上がっていって下さい」

 テンテン・テマリと並んで、わたしは階段を上がる。壁には、歴代の主とおぼしき油絵の肖像が、ずらっと並んでいた。いずれもパンダの面を付けている。身にまとっている服が異なる以外、まるで見分けがつかない。
「わたしの祖先は、大のパンダ好きだったのです。わざわざ職人に頼んで、本物と違わぬパンダ・マスクをこさえさせたそうですよ。以来、ずっと被ったままで生涯を過ごしましてな」歩きながら説明してくれた。
「そのマスクって、昔から受け継がれてきたものなんですか?」好奇心を抑えられず、質問をする。
「いやいや、そうではありません。ご先祖様は、結局、1度も脱ぐことはなかったんです。おそらく、いまもそのまま埋葬されているのでしょう」
 明るい緑色をしたカーペットの敷かれた廊下をしばらく行った先に、その部屋はあった。扉には金のプレートが貼られていて、「オレンジ・ルーム」と彫り込んである。
「さあ、着きました。庭のミカンは、ここへしまい込むのです」テンテン・テマリは、扉を開けた。柑橘系の香りが強烈に広がる。

 部屋の床はえぐられて、プールのようになっていた。ただし、水ではなく、縁いっぱいにまでミカンの実が放り込んである。
「うわあ、これはすごい量ですねっ!」何人で暮らしているかは知らないけれど、一家族だけで消費するには多過ぎやしないだろうか。まるで、果物の倉庫だ。
「これ、この家だけで食べるんですか?」
「もちろんです。これでも、今年は少ないほうなのですよ。けれど、味は上出来です。どうぞ、どうぞ、食べてみて下さい」
 わたしはさっそく、手近なところから1つを取る。温州ミカンには違いないが、店で買うものなどより一回りほど大きかった。色艶も美しく、鼻を近づけただけで、その糖度が香りから容易に想像できる。
「いただきます」ミカンのお腹に人差し指を突き立て、一気に皮を剥いた。筋も少なく、房も粒がそろっている。「おいしい……。こんな甘いミカン、初めて食べました」 
 
 そのとき、ミカンのプールがもぞもぞとうごめいた。わたしはドキッとする。巨大なアオムシが、底から這い上がってくるのではないかと思ったのだ。
 ところが、ひょこっと顔を出したのは仔パンダである。
「あっ、今度こそ本物のパンダっ!」わたしは指を指して叫んだ。
「はっはっは。違いますよ、そいつはわたしの息子で、名前はボンボンです。こら、ボンボン。ここで遊んじゃいけないって、いつも言ってるじゃないか!」
「だってー、ぼく、もっとミカンが食べたくって仕方なかったんだもーん」ボンボンはダダをこねる。わたしを振り返って、「ねえねえ、パパ。この人、だぁれ?」
「お客様に向かってなんだ、その口の利き方は」テンテン・テマリは厳しい口調でたしなめる。「こちらは、同じ町内に住んでらっしゃる、むぅにぃさんだ。ご挨拶しなさい」

 ボンボンはミカンの上で行儀よく座り直した。
「明けましておめでとうございます」
 そう挨拶されては、お年玉を渡さないわけにはいかなかった。ポケットから財布を取り出すと、札をひぃ、ふぅ、みぃと心の中で数える。数えながら、ボンボンを何度も見定めた。
 どこからどう見ても赤ちゃんパンダだ。どうにかして、人間の子どもに換算しようとするのだが、なかなかすり合わせがうまくいかない。
 ついには面倒になり、奮発して5千円札を引き抜いた。
「明けましておめでとう。はい、これはお年玉。あんまり、ムダ遣いしちゃダメだよ」
 仔パンダは、「ありがとうっ」と大喜びをし、キャアキャアとはしゃいでみせる。
「すみませんねえ、むぅにぃさん。正月など、とっくに過ぎているんですから、お年玉なんて、そんな、よかったのですよ」父親もそう言いながら、機嫌のいい顔をした。
 どこからどう見ても、無邪気にじゃれ合う親子パンダだった。

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