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沖縄行き汽車に揺られて

 東京発、沖縄行きの汽車に乗っている。
 向かい合わせで座っているおばあさんに尋ねた。
「何日くらいで着くでしょうか?」
 おばあさんは、傍らに座る幼稚園くらいの男の子の頭をなでながら答える。
「さあねえ、いまの時期、線路が混んでるから」
「お2人も沖縄まで?」
「ええ、魂の洗濯に。わたしら、別に急いでなんぞおらんから、こうしてのんびりと揺られていくのさ」
 考えてみれば、わたしも東京に戻ってするような用事はなかった。それならば、いつ目的地へ着こうと、あまり重要ではない気がしてくる。
「そうですね、ゆっくり行きましょう」わたしはシートに寄りかかった。穏やかな気持ちに包まれる。

 窓の外に、畑や林が見え始めていた。東京を出た辺りだろうか。やがて、山と森ばかりになり、うっそうとした林をひたすら走り続けた。
 トンネルに入り、出たかと思えば、またすぐ次のトンネルが現れる。短いものもあれば、やたらと長いものもあった。車内は蛍光灯が付いていたが、トンネルに進入するたびに、なぜか切れてしまう。外が明るい分、闇は墨のように濃く、目を閉じているのか開いているのかすらもわからなかった。
「パンタグラフもないのに、どうして電気が切れるんでしょうね」わたしは暗がりの中から声を発する。
「雰囲気を出すためじゃないですかねえ」おばあさんがそれに答えた。「昔の汽車っていうのは、電気なんかなかったし、隧道ん中は本当に真っ暗だったんですよ」
「雰囲気かぁ。この汽車はそういう趣向で走っているんだ……」
 ふいに車窓が明るくなる。わたしはまぶしさに、目を細めた。
 いまのトンネルは長かった。20分は走っていたんじゃないだろうか。

 さっきまで木々の間を走っていたが、やがて海岸沿いに出た。進行方向右に、荒れる波の海を臨む。
「日本海ですよね?」わたしは言う。
 おばあさんは、膝にもたれかかって眠る男の子の髪を優しくとかしていた。
「そうとも限りません。どこかで折り返して、実は静岡の辺だったりするかもしれませんしね」
 そう言われてみると、太平洋にも見えてくる。いつも乗る電車と違って、車内放送が一切聞こえてこなかった。車掌が案内に回ってくるわけでもない。どこを走っているのか、まったくわからなかった。
「でも、先を急ぐ旅じゃないし……」不安はまったくない。時間に縛られないというのは、なんて素敵なんだろう。

 集落をいくつか通過すると、唐突にカルスト台地が広がった。
「ここって、山口県ですねっ。やっぱり、さっき見えていたのって、日本海だったんですよ」わたしは窓に顔を寄せて言う。
「ここいらも、もっと寒くなると雪景色になってね。それはきれいなもんですよ」おばあさんは気にとめる様子もなかった。
 明るく枯れた草原の中に、点々と石灰岩が転がっている。その石を、ポーンポーンと伝って跳ぶ、奇妙な者がいた。人と呼ぶにはやたらと足が長く、まるでクモのよう。
「あれ、なんでしょうね」わたしは指差した。どれ、というようにおばあさんも身を乗り出す。
「ああ、あれですか。この地方じゃ珍しくもなんともない、『かかしひょっとこ』ですねえ」
「はあ」かかしひょっとこは、汽車を追うようにして跳ねていた。どうやら、地面に足を着くことはルール違反と決めているらしい。岩の上だけを移動しているのだった。

「ついてきてますよ」とわたし。
「汽車が珍しいんでしょう。何も悪さなどしませんから」
 おばあさんの言うとおり、やがて飽きたのか、追うのをやめ、どこかへ去った。
 カーブの先に、岩山をくり抜いたトンネルが見えてくる。くぐるときにちらっと見た入り口は、荒々しいノミの跡が無数に刻まれていた。
 高い天井の所々に口を開けた隙間から、外の光が差し込んでくる。手彫りは入り口だけで、中は鍾乳洞だった。
「ここは秋芳洞の中ですよ。九州に抜けるのに、ここを通るのが1番の近道なんだそうでしてね」おばあさんがそう教えてくれる。
 奥へと進むうち、天井の裂け目もなくなって、次第に暗くなっていった。
「ライト・アップしてないんですね」また、闇の中かぁ、とわたしはため息をつく。
「今度は長いですよ。これまでよりも、ずっと長いですよ」おばあさんが言った。
 傍らで、男の子がうーん、と寝言を立てる。

 本当に長かった。時計を持っていなかったので正確にはわからないけれど、まる1日走り続けていた気がする。
 何度か、うたた寝をした覚えがあった。目が覚めて、ああ、まだ暗いな、そうつぶやいたのは、2度だったか、それとも3度か。
「水着に着替えて」そうささやく声がする。おばあさんが、男の子に促しているのだった。
「もう、着いたの?」男の子が眠そうな声で聞く。
「まだだよ。でも、あとすぐだから。そろそろ、水着に着替えとくといい」
「あの」わたしは顔も見えない中で話しかける。「もう、沖縄に到着なんですか?」
「ええ、あと10分もしないうちにねえ。あなたも、早く水着に着替えたほうがいいですよ」
 わたしにはなんのことかわからなかった。
「たぶん、水着なんて持ってきてないです。それ、本当に要るんですか?」

「おや、まあ。こりゃあ、うっかりさんだったねえ。服のまま沖縄で降りるつもりでしたかね。そうですねえ、なら、ホームに降りたら、真っ先にキオスクへ寄るといいですよ。あそこなら、なんだって置いてありますから」
「わかりました。そうします」うなずいたものの、まだ合点がいっていない。確かに、浜辺で泳ぐのなら水着は必要だろう。けれど、駅で着替えてどうするというのか。
 窓枠に光が照り返してきた。トンネルの出口が近い。
「終点、おきなわ~、おきなわ~。どなたさまも、お忘れ物、置き忘れ等ございませんよう、今1度、身の回りをお確かめください~」
 車中で聞く、初めてのアナウンスだ。
 カーッと照りつける陽光が窓から差し、汽車はようやく表へと出た。
 まぶしさで閉じていたまぶたを、少しずつ開く。目の前の席では、海水パンツ姿の男の子が足をぶらぶらさせていた。おばあさんも、縞々のワンピースを着込んで、足にはピーチ・サンダルを履いている。

 汽車は徐々に速度を落とし、がらんとしたホームの中で客車を揺らしながら停車した。
 閉まったままのドアの下の方から、じわっと水が染みてくる。急いで窓の外を見下ろすと、ホームはくるぶしの辺りまで湯が来ていた。駅の向こう、町全体へ目を移すと、どこもかしこも湯気だらけ。誰もが、畳んだ手ぬぐいを頭に乗せ、肩まで浸かって歩いている。
「ほらね、言ったとおりでしょう? ささ、湯がここまで入ってこないうちに、靴は脱いで、裾もめくっておきなさい」おばあさんが言った。
 わたしは慌ててブーツを脱ぎ、靴下も脱ぐ。
 そんな様子を見て、男の子がキャッキャと笑った。
「キオスクに、水着のほか、サンダルもあるでしょうか?」
「もちろん、あるでしょうとも」
 おばあさんは、そう請け負う。

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