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海の向こうのカンファレンス共有会を聴きながらこの島国の思考の鋳型を考える

 マーケティングに関する海外のカンファレンスに登壇した体験談が社内共有会として開かれていた。そこでの話を聞いていたとき、私はふと日本と外国のハザマについて考えをめぐらせていた。

 発表の中で、日本 vs 海外 / 若手 vs シニアの2軸で分類したときに、マーケターがどのようなキーワードを各テーマで想起するかという分類をしている箇所があった。ここで強調されていたのが外国人マーケターと日本人マーケターの意識の違いである。例えば日本人の若手マーケターは「AI」という言葉を聞いて「人間の労働を奪う」といったタイプの語彙を想像するが、外国人の若手マーケターは「日常の雑事から解放してくれる」といったような言葉を想起するという統計結果がでているのだという。また「次世代のビジネス」という言葉に対して海外のシニア・マーケターは「AI」とか「イノベーション」というワードを想起する一方、日本のシニア・マーケターは「働き方改革」や「オンリーワン」などを想い起こすらしい。このように若手・シニア問わず日本と海外ではマーケターの発想に差が生じているということが言われていた。
 知名度や売上で圧倒的な差をつけられている競合他社の世界No.1企業たちに対して、あるいはいままで視界にすら入っていなかったのに、インターネットとコンピューティングの革新により同じ業界のプレーヤーとして浮上してきた情報産業の巨人に対して、どのような対策をとっていけばいいのか。このように海外と日本で大きく与件が異なるのであれば、海外のやり方が日本ではそのまま通じないし、日本のやり方を海外に展開することも難しいだろうというようにその日の話は進んでいった。

 話半分に聞いていたので、データソースがどこなのか、どのような分析視覚を用いてこのような結果がでたのか、実際のところはよくわからない。ただ私は、ツイッター上の印象論的な井戸端会議の延長に過ぎないかもしれないこの話を聞いている中で全然別のことに意識が向いた。それは「日本と海外では意識に差がある」という言説と現在の日本や企業が置かれている状況、すなわち経済成長の停滞や社会の閉塞感が密接に関係しあっているのではないかという着想に始まる。

グローバル・スタンダードと日本固有論

 日本という国や文化に特殊性や固有性を感じて強調するという論法は何も珍しいものではない。日本史を遡ってみればグローバル・スタンダードと日本の固有性をめぐる対立は至るところに顔を出してきた。

 南北朝時代には慈円が『愚管抄』で、当時のグローバル・スタンダードだった華夷思想をベースに『礼記』から百王説を引き合いに出して、すべての王朝は100代に到達する前に滅びるのであって、我が国も例外ではないと説いた。一方その百年後、北畠親房は『神皇正統記』で我が国の天皇には中国王朝の法則である百王説は適用されないと唱えた。慈円を支持する者たちは当時の世界の中心である中国のルールを日本にも当てはめて考えていたが、北畠親房を支持する者は日本という国は特殊だからそうしたグローバルなルールは該当しない独自の国なのだという発想で世界を捉えていた。
 大正時代に起きた日本資本主義論争では革命の解釈について労農派と講座派が争っていた。労農派は世界で起きている資本主義の発達順序を日本もなぞっていると考えて、すでに資本主義は十分に日本社会に浸透してきたのだからすぐ社会主義革命を経て共産主義の世界を実現しようとした。一方講座派は日本は世界の国々とは異なる特殊な国であり、絶対主義天皇制のもと、官僚と地主がひとつとなって日本独自のシステムを作っているから、これを勘定に入れて革命の順序を考えないとならないと主張した。

 このように、日本には「日本という特殊性」を世界の中でどう位置づけるかを巡って正反対な二つの思考の鋳型が伏流水のように流れ続けているのである。

文化的思考の鋳型とビジネス戦略との関係性?

 ところで私が所属する会社は、データドリブンなマーケティング・リサーチを提供する老舗である。一応業界No.1のシェアを占めているのであるが、実は最近業績がそこまでよくはなく、上層部はなんとかして成長曲線を取り戻そうと日夜頭を絞っているんだそうだ。

 若手の私から見てみると、私の所属する会社は典型的な古き良き日本企業である。だからカルチャーとしてもビジネススタイルとしても、古き良き日本の作法を踏襲している点が多くある。ルーチンで売り上げをあげられているのは先人たちの努力の賜物であるが、時代遅れを否めないビジネスロジックや技術基盤や運用方法の採用を継続していることに危機感を抱いている人間は上層部に存在しない。それでも今日までうまくやってこれたのは、他の産業と同じく膨大な日本の内需が企業の業績を支えてくれているからだ(まだ日本の人口は1.26億人もいる。)しかしこれから先人口減少により内需が減少していくことは確定事項。ゆえに大規模な売上拡大をのぞむなら、お客様は海外に求めないとならない。

 このように海外の情勢が国内に影響し、対外的な方策をなにか考案しなければならなくなったとき、政治や文壇では真っ二つに結論が別れていく。「グローバル・スタンダードに追いつけ追い越せ派」と「日本独自路線を突き抜けていけ派」である。

 きっと私が所属する会社は前者を選択するだろう。すでにマーケティング屋らしく、自社の置かれた立ち位置を分析し、なんとか競合他社に勝てるような方策を考えようとしている。しかしこれほどまでに産業が組織化され、情報産業では遅れをとり、多国籍企業の巨大資本が我が物顔で闊歩する世の中でグローバリゼーションの波に乗ろうとすると、最後の勝利者に全ての利益を持っていかれることになるのではないだろうか。しかしだからと言ってグローバリゼーションに背を向けて日本固有のスタイルを貫こうとしても、ガラパゴス化するのがオチである。

 上層部の立てた「新年の目標」は、回り回って部下たちに降りかかってくる。要はどんなお題目も「目先の売上をあげなさい」という一言に最後は変換されるのがオチなのだが「実は業績が芳しくない理由には個々人の努力が足りないからではなく、以上のような構造的問題があるのではないか?」ということを徒然なるままに思っていた。

追伸

・・・とここまで綴っていて、結局問題提起しかせず、うやむやにして終わるデキの悪い社説のような文章になってしまったので、私の意見を少しだけ。上にあげた二つの思考の鋳型のハザマにいながら結論をだすには、両者を二項同体にみる必要がある。それは相対する二つの事柄を弁証法的にマージさせるのとは少し、いやだいぶ違う。ダブル・スタンダードではなくてデュアル・スタンダードなものの見方をするということである。いつかそれについて詳しく書きたい。

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