【随筆】【文学】空知川の岸辺の憂鬱(五・最終回)
以下は余談の余談のような話。
実は「独歩苑」については撮影で幾度となくその前を行き来していた。その度に私は「独歩苑」の看板を指差しては、「ここは国木田独歩と何か関係がある場所なのか?」などと、ひどく気にしていたらしいのだが、何故だかそのことを、すっかり失念していたようなのだ。
「空知川の岸辺」で描かれた独歩の体験は、代表作「武蔵野」の中で、北海道の深林で遭遇した時雨として言及されているが、私の一番好きな独歩作品「忘れえぬ人々」の中にも顔を出している。
この作品は、無名の文学者である大津が、多摩川沿いの宿で、たまたま知り合ったやはり無名の画家秋山に、「忘れえぬ人々」について語るという仕掛けになっている。
大津にとっての「忘れえぬ人々」というのが少し変わっている。肉親とか友人、教師、先輩といった人々ではなくて、普通ならすっかり忘れてしまうような、旅の途中でふと目にしただけの人々であり、人生において意味があるとも思えないけれど、どうしても忘れることが出来ないそれらの人々--瀬戸内海の小島で貝を拾う男、阿蘇山で馬を引く若者、四国三津ヶ浜で琵琶を弾く僧--の思い出が語られる。そうした「忘れえぬ人々」の一人として、「北海道歌志内の抗夫」も挙げられている。
作品の結末は大津と秋山が宿で語り合った二年後のこと。大津にとっての「忘れえぬ人々」は秋山ではなく、宿の主人であったことが示されて、物語は結ばれる。
こうした記憶の不思議を、大津は次のように説明している。
これは、「空知川の岸辺」の中の次のような叙述と照応しているように思える。空知太から歌志内へ向かう列車で一人、車窓から風景を眺めている箇所だ。
人間が何よりも風景として立ち現れること、その風景は内面の孤独と深く結びついていること--心象の中に浮かび上がるのは、ロングショットでしかとらええない、“孤影”としての人間であるということ。そうした心象風景と、無意識や記憶との不可思議な連関。ここに独歩の作品世界の大きなテーマが潜んでいるという勝手な結論らしきものをもって本稿を閉じたい。
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