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『架空』〈第3話〉架空-Fictionalized Monorail-

東京には、映画を観る以外に用はない。
ましてはわざわざ休日に人混みを浴びることは、
シノにとって生活の質を著しく低下させることだと確信している。
17:45開始という中途半端な上映スケジュールに微々たる苛立ちを覚えながらも、新宿のむさ苦しさはそれを表情筋の裏に隠すことを許さない。

自然と眉間に皺が寄り、早足になる。
「東京は空気が汚いから鼻毛が伸びる」
なんてタキヤの冗談を不意に思い出した。
目先の信号が点滅する。

「すみません、この辺でペンギン見ませんでしたか?」
白Tシャツに淡い紺色のスラックスの男性が、シノの視界に入り込む。

信号が赤に変わる。
無意識にシノの腕はイヤホンコードを伝い、iPod Classicのホイールを回す。
背面のステンレススチールが太陽に反射したのか、一瞬目をしかめた男は、音漏れするまでに上げられたボリュームを無視して話し続ける。

「君よく新宿来るの?この辺でペンギンよく出るんだけど、見たことない?」
履き古されVans、その靴紐の先のプラスチックが紛失して散り散りになった紐先が、彼の軽薄さをよく表している。

「かわいいからきっとペンギンもついてくると思うんだよね。絶対そう」
アレサ・フランクリンのThinkを掻い潜って聞こえてくる彼の口調は、いたって穏やかだ。

「もしよかったらでいいんだけど、一緒に探してくれないかな?」
視線をみすぼらしい紐先から信号に移すと、すでに青に変わっていた。
シノの厚底のシューズが2本目の白線を超える。

「じゃあアドレスだけ教えてよ。あ、最近だったらLINEの方がいいかな?」
軽薄な腕がシノの肩を掴む。


志野家にとって、家族3人揃って食事をするのは稀なことだ。
こたつの丁度中心点に置かれたキムチ鍋は、不規則なリズムで箸でつつかれる。

「アミちゃん、食器片付けたら今日もお父さんの部屋でボードゲームしようか」
無言で頷くシノ。
母は無意識なのか、目を逸らして食器をキッチンに運ぶ。

志野愛海。
実の父親にちゃん付けで呼ばれる違和感はいつになっても拭えない。

バタン。ガチャ。
父親の部屋にしか設置されていない鍵。
扉がロックされた瞬間、2人以外存在しない空間が生まれる。
彼の吐息が近づくたび、目につく彼の袖のほつれ。
それは糸崩れというより、蜘蛛の糸が垂れたように長い。

シノの思考を停止させる糸。
暴力という名の糸。
金という名の糸。
権力という名の糸。

男は、無自覚にも他人を操る様々な色の糸を持って生まれてくる。
それは現代においては広告、メディア、常識に規則正しく紡がれ、
縦横無尽に空気中を漂い、知らぬうちに全身にまとわりつく。

「誰の金でそのメシ食ってると思ってるんだ」
糸が絡まっている事に気付かずに一生を終えていた方が幸せだったのかもしれない。

「暴れるぞ」
しかし操る糸が多ければ多いほど、私の周りの糸は可視化された。

「俺がお前にしてきた事全部、母さんに全部話したから」
彼は筋肉が強ばり引き攣ったシノの肩をポンポンと叩き、揉みしだく。
その瞬間、シノを取り巻いていた糸はブツブツと音を立てて切れる。
糸と糸とが張り詰め合い、旋律を奏でる。

「たかーい!浮いてる!見て!あの山なんかケムリ出てるよ!」
こんな時に限って都合の良い思い出ばかり思い出す。

「大涌谷っていうんだよ。登ったら温泉卵食べようね」
小学生には温泉の良さなんてちっとも分からなかった。

「モノレール!モノレール!」
よくジャンプして揺らして怒られていた。

私の半分は目の前の男の遺伝子で構成されていて、私の子供が欲しいと言っている。私の半分は目の前の男との思い出で構成されていて、私に覆い被さっている。

ワイヤーで吊り上げられただけの箱。
箱根での硫黄の匂い。
匂わされる、加齢臭。
怒りと静寂の狭間に、シノの琴線が同期した。

バチュン。

翌朝、ソファーに深くめり込んだ母は、両手で顔を押さえて動かない。
今後この家庭における父親は、架空の存在となった。



「じゃあアドレスだけ教えてよ。あ、最近だったらLINEの方がいいかな?」
男の首、両手首、両足首にラインが入る。全身の動きを封じられた男は声を出すことも叶わず、可動域が許す限り眼球を動かし、なんとか状況を把握しようとする。

シノを性的コンテンツとして消費し切ったその眼球をアンカーポイントとして、男の両手足が宙に浮く。線路を挟んで向かい側にそびえ立つビルに建てられた保険会社の看板には、女性タレントがにこやかな表情を浮かべ、太陽が丁度その裏に仕舞われていく。
男の方へと振り向くシノ。
圧迫される男の首から行き場を失った血液が、動揺を隠せない眼球へ流れ込む。
サイネージが点灯、その瞬間、男は目の前の少女の背後にランダムな光の反射を捉える。
反射は枝垂れ桜のようにカーブを描いて、シノの両腕に伸びている。
シノはだらんとぶら下げた両腕の中指を立てると、くるりと手のひらを返す。

ホームランボールのように弧を描いて飛ばされる男。同時にシノを取り巻いていた”反射”はコンクリートを流れ、周囲の歩行者を包み込む。
操られたようにブギーなダンスを踊りだす人々。
いつの間にかサイネージには、吹っ飛ばされ続ける男の顔が、実況中継されて映し出されている。

シノが拳を握り、シーツを剥がすように腕を引く。
男は空中で急停止し、体をそり返らせ、シノの元へと急降下する。

人混みは踊り続ける。

シノの目の前にはエッグスライサーのように4本の太い糸が地面から伸び、天へと繋がっている。4本のうち、2本の糸の間から自分の元へ戻ってくる男を確認するシノ、片方の口角が不自然に吊り上がる。

バチュン。


「信号赤に変わるよ?なに突っ立てるの?」
土曜日にも関わらず制服を着たタキヤが、土と汗が少し残った手のひらで、シノの背中を押す。テニスラケットのグリップとの摩擦によるものなのか、少し熱を帯びたそのひらは、あまりにもむさ苦しい。

「タキヤ...」
信号を渡り切る二人。

「ラケットバッグ置いて」
「え?」
「重いから」
「いや別に大丈夫だけど」
「そうじゃない」

肩紐と制服との間にまとわりついた他人の汗など、今のシノには気にならなかった。少なからずそれがタキヤであることで許容された節は強いが、シノは無理矢理バッグをタキヤの体から引っぺがすと、彼の腕を掴む。

「飛ぶよ」



「それで、自分より大きなものも操れるようになりたいと」
大きく頷くシノ。
タキヤは腕を組み、シノの周りをゆっくりと歩いている。
「さっきみたいに僕を掴んで飛ぶために握力の補強はできても、まだ人ひとり浮かせるほどの力はないと」
タキヤの震えた両手が、手すりを掴む。

「そんなとこ立って怖くないの?」
「...は!?怖いに決まってんじゃん!街でシノアミ見かけて、ナンパに絡まれてたから声かけたらいきなり腕掴まれて空飛んで?意味分からない能力の説明されたって、いやもはや逆に何も怖くないんですけど!?」
何この足場キシキシ言ってる!、と言いながらシノの隣にへばりつくタキヤ。二人だけで話せる場所、と咄嗟に思いついたのが、東京タワーだった。と言っても、シノが着地に選んだのは、展望台の屋上である。
夜景を背景にタキヤの慌てようを、もう少し眺めていたかった。

「ネットでは"架空"って呼ばれてる。空を架けるで、架空」
「なに、他にも同じ能力持ってる人がいるってこと?」
「そうらしい」
「知らなかった。ましてやシノアミが"能力者"だったなんて」
「そりゃそうだよ。だってみんな、社会の糸から外れてるんだもん。誰の耳にも届かない」

シノの追加説明を促すかのように、タキヤの眉がハの字に開く。
共通点は、と言いかけたシノの口は、わざとらしく笑みを浮かべ、
「魔女の正体は架空使いだって書いてる人もいたんだよ。正確には、魔女になった。とにかく、架空って言うくらいだから、私もちゃんと空を飛んでみたい。もっと色々できるようになりたい」

いつもは何事にもあまり感情を見せないシノが、自然と早口になる姿を微笑ましく眺める。ちゃんと、という言葉が脳のどこかに引っかかる。

「ちゃんと、ってことは、今のは偶然だったの?」
「なんか、流れで出来た」
「何それこわ。もしかして本当は僕たち、死んでる?」
「大丈夫。タキヤは死なせない」
タキヤは右手の肘を左手の甲に置く。
「考える人」のように顔に伸びた右手は、優しく頬を何度かつねり、しばらく静止した。もう震えは止まっている。

「じゃあさ、死なせないでみせて」
そう言うとタキヤはその場で4回ほど軽くジャンプしながら両手が顔を叩き、手すりに向かって走り出す。

「...え」
シノの口から漏れ出た一文字は、タキヤと共に手すりを越え、地面へと落下する。タキヤが視界から消えた瞬間、迷いのない軌道で跡を追うシノ。
重力に身を任せる。

空を架ける、イマジナリーで見えないワイヤー。
ワイヤーで吊り上げられただけの箱。
箱根での硫黄の匂い。
匂わされる、加齢臭。

怒りと静寂の狭間に、琴線を同期させる。
その瞬間、手を伸ばした先にいる指と指の隙間から見えるタキヤは、まるで水の中に落とされた氷のように浮き上がる。そのまま速度を上げて、東京タワーよりも高く舞い上がるふたり。シノの身体は、炭酸水にでも浸かっているかのような痺れに包まれる。
タキヤの中の”死への恐怖”と”生の実感”が、初夏の水分を含んだ空気に溶け出す。
やればできるじゃん、とまるで師匠かのようなタキヤの振る舞いとは裏腹に、その一言一句、声が裏返っている。

ニヒヒ、と解放されたシノの笑い声が夜空に消える。
ふたりを照らす満月は、フィクションの演出かのように、
その全身を覆い尽くしてしまうほど大きかった。

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