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【エッセイ】背景の無い絵

最近、絵を描くようになった。この文章の見出し画像がまさにそうだ。
上手とは言えないが、納得はしている。

別に何の節目というわけでもない。友人にこの話をしても「なんで今?」という疑問が飛んでくるが、きっかけなんてない。油絵なんていつ始めてもいい趣味の一つだろうと私は嘯く。

ただ、強いて言うなら、カンディンスキーなどの抽象画に始まり印象派、象徴主義 …などなど、ある程度自分の好きなものや影響を受けたものを自分で明確に言えるようになったのが大きいと思う。

自分という人間の中にある一定の芸術への理解と強度が生まれたと言うと大袈裟だが、それに近しい感覚なのは間違いない。
具体的に言えば、ただ感覚で描くことや、逆に風景や人物などを写実的に描くだけが美術的な評価基準でないということをある程度体系的に理解した、というところだろうか。

しかし、自分は芸術系の学問を志しているわけではないのでそういう芸術の知識的な事は実際何も考えなくてもいいと言えばいい。誰に何を怒られるわけでも褒められるわけでもない。
油彩画だろうがネイルアートだろうがそれは等しくアートである、そんな世界に生きている。

実際私が「西洋美術的文脈が、云々~」と抜かしたところで面倒くさい人間だなと思われるのは目に見えてる。少なくとも私が聞き手なら間違いなく一旦距離を置く。

世間一般では誰も文脈など気に留めていない。そんなことを私に教えてくれるような出来事がつい最近にもあった。

それは、家の近くにある数年前に出来た建物の中に”隠れ家風喫茶”と銘打ったお店が入った事だ。解放感のある店構えのお陰で外からでもお洒落な内装が見える。いくつかのテーブルで仕切られた狭い店内を2、3人で接客していた。

「隠れ家風とは?」というのが私のファーストインプレッションだ。そんなこと言わなくても、彼の店構えはお洒落だよ。心の中のクリロナもそう言っている。気になったのでもう逆に入ってしまった。一体何が彼を隠れ家たらしめているのか。

入口で一人であることを告げると二人掛けのテーブルに通された。メニューがやってくる。赤一色で統一された布に挟まれた紙束は文字情報のみでメニューの詳細を伝えようとしていた。そんな無機質の中でも一際目を引く位置にある料理がある。それが「昔ながらのナポリタン」だった。ビックリ。

この店は出来て一年も経っておらず、(たぶん)個人経営の一号店だ。もう怖いとかそういう感情になってくる。何をもって”昔ながら”なのだろうか。

だが、まぁ何というか、ここまで来れば何となく私も察するものがある。いわゆる昭和レトロな”雰囲気”がこの店のコンセプトなのだろう。実際に内装は照明も椅子も全て一昔前を思い起こす情緒がある。この”雰囲気”が問題で、つまり実際に昭和レトロでなくともよいのだ。文脈としてのバックボーンを経ずとも「昔ながらの」隠れ家”風”な何かを出力する盾として機能している。経営戦略としてはきっと正解なのだろう。コンセプトカフェか何かだと思えば分かる気もする。

飲み物のメニューを見ても珈琲や紅茶よりも、何かキラキラした飲み物の種類の方が多い。最早喫茶店なのかも怪しくなってきた。もし法律にこういう店を喫茶店と呼ぶ、と記されていればこの店は数か月後に無くなっていそうだな。そんなことを考えながら頼んだのは”昔ながらの”ナポリタンにメロンソーダに、食後のプリン。私も大概古典的なエモの奴隷だ。ここまで来て金を出すなら雰囲気を楽しみたいという打算もあった。

少し前に「パターン化されたエモ」というものに対する物言いのような文章がTwitterでバズっていた記憶がある。ネット上で擦られに擦られた原文は最早正確には覚えていないが、彼(彼女)もこんな店に生活を囲まれた人間だったりしたのだろうか。築五年も経っていないオープンな場所にある建物に出来た喫茶店とは名ばかりの店が、あろうことかレトロな隠れ家を名乗りそれが受け入れられている。そんな街に住んでいたのかもしれない。
そんな背景も文脈の無いエモーショナルを描いた絵は、それでもアートとして高らかに名乗りを上げている。

もはや忘れかけていた注文がテーブルに届く。それはどこで食べても等しく美味しいナポリタンであり、美味しいメロンソーダであり、美味しいプリンだった。

私はそんな世界に生きている。

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