文学的建築/建築的文学  種田元晴


 文学的建築/建築的文学
2012/10/22 種田元晴


無関係の存在

 文学と建築は、一見何の関係もないようで実際全く関係ない。
 そもそも文学は文字によるものであり、建築は図と物体によるものであるわけで、その表現・表出媒体も異なることながら、持つ役割も全く違う。いくら共通点を探してみてもみつかるはずもない。といってはここで話が終わってしまうので、敢えて探してみる。
 パッと思いつくところでは、文学も建築も実用的・娯楽的役割を持つ商品であるだけでなく同時にその創作性から芸術作品として扱われることがある、文学にも建築にも構成と文脈というものがある(建築では、敷地周辺の条件や関係のことを「敷地のコンテクスト(文脈)」という)、文学部が作家を養成する学校でないように建築学科ももはや建築家を養成する学校ではない、等といったところか。
 意外に挙がるではないか。思っていたよりも文学と建築との間には無関係が存在しないのかもしれない、と思い直して、少しその関わりを論じてみたい。
 その前にあらかじめ、筆者は文学に関してはほぼ無知な建築の分野に身をおく者であることをお断りしておく。したがって本稿では、主に建築の分野の方でない方へ向けて、建築の分野で文学に関わりのある側面の一端について簡単に紹介することとさせて頂きたい。


建築学と文学

 まず、建築の分野には大雑把に分けて実務と研究の二つの生業が存在する。すなわち、建築業と建築学の二つの意味で“建築”という語は用いられる。まあとかく実業と結びつく分野(とくに工学)はどこも業と学とが不可分なのである。とくに建築“学”に関しては、さらに大きく分けて計画系、環境系、構造系の三つの分野に区分される。
 これら三分野の違いを単純化すると、計画系はデザインとか歴史とか使いやすさとかに関する分野であり、環境系は熱・音・光・風などを科学する分野、構造系は実物が安全にカッコよく使いやすく建つための技術や材料の可能性を考える分野である。さらに大雑把にくくってしまえば、計画系は文系もしくは芸術系、環境系と構造系は理系な分野ということだ。
 ということで、文学とより関係が深いのは、計画系の分野である。計画系にはさらに建築計画、農村計画、都市計画、歴史・意匠、情報系、教育論などの領域がある。とくにこの中の歴史・意匠というところで、文学との関わりが少し見出せる。歴史・意匠というのはすなわち、建築の文化的な側面に関しての研究が行われている領域である。
話をよりわかりやすくするために、日本建築学会の論文投稿上規定されている歴史・意匠の細目を示そう。
 日本建築史、日本近代建築史、東洋建築史、西洋建築史、西洋近代建築史、建築論、意匠論、都市史、保存などといった細目区分がある。
 これらのうち、前半の「なんとか建築史」というやつは名前がそのまま内容を表しているので比較的わかりやすいものと思うが、“建築論”とか“意匠論”とかいうものはなんだか抽象的でわかりにくいものと思う。しかし、この抽象的なふたつの分野が特に文学と関わりが深いのである。


建築論と意匠論

 建築論と聞くとなんだか、建築とはこうあるべき、とか、建築にはこういう可能性がある、といった、概念的なお話をこねくる学問のように思えるが、そのとおりである。誤解を恐れずにいえば、建築という行為・物体について哲学的に思惟する学問である。建築論は、最も文学的な建築学の領域であると考えられる。
 建築論は、古くは、紀元前30年頃のローマのウィトルウィウスという建築家による『建築十書』の中で、建築の意味と理論を示したものが起源といわれている。日本ではこれを京都大学教授の森田慶一(1895-1983)が翻訳している。森田は、建築の意味と理論を問う講義を重ねて主著『建築論』を著した。建築論は、森田とその弟子筋によって学問体系として大成された。
 京大といえば、西田幾多郎をはじめとする哲学体系・京都学派の牙城である。森田は元々は東大出身である。卒業して間もないころには、「分離派建築会」の一味として、当時の東大で建築といえば構造物としての性能と西欧由来の歴史的様式美こそが至上命題であるかのように振舞われる学風に同級生らと物申し、独自の建築表現を追い求めて展覧会を催すなどの運動に加担した。
 その後森田は、しかし西洋の古典建築へと関心が深まって歴史研究にのめり込み、やがて建築の起源へと迫るにつれて、そもそも建築とは何なのか、を問う哲学的な領域へと踏み込んでゆく。それが建築論のはじまりである。
 しかし、建築論という建築における哲学的な学問領域を整えたことは、単に森田の関心興味のみによるものだけではなく、京都学派の影響も大いにあったものと考えられる。現在でも建築論の研究は京大出身者とその系脈の研究者らの占有率が高く、彼らは一部では建築の京都学派と呼ばれている。とくに、森田の弟子である増田友也(1914-1978)は、道元やハイデッガーなどの思想を通して建築の存在を思考したことで名高い。
 意匠論は、建築のデザインについての意味や効能を問う学問である。建築論も建築の意味を問う学問であったので、広義には、意匠論は建築論の一分野であるとも解釈される。
 とくに意匠論の方で扱うテーマは、どちらかというと建築とはなにかといった抽象的な概念ではなく、即物的に現象している空間の構成を問題にしている。すなわち、床・壁・天井・窓などの優れた配列や組み合わせにどんなパターンがあって、なぜそれが優れているのか、美しいかたちや豊かな内部空間を実現させている要素は何なのか、といったことを図式的に探求する学問である。
 美しい文章には巧みな文脈があり、巧みな文脈には優れた文節があり、優れた文節が豊かな単語の組み合わせによって成り立っていることに通ずるものとして、建築の構成を考えているのである。
 意匠論の論文では、先述のように、その多くは建築家による建築作品の空間を形づくっている要因を探るべく、建築を単純化した立体図や平面図などを作成し、要素を抽出し、類型を探る、というものが多い。その一方で、建築家の言説に着目した研究や、文学作品に描写された空間のイメージを分析した研究などもある。
 つまり、同じく文学と関わる建築学であっても、建築論がそれ自体文学的であったのに対して、意匠論は、建築物を文章に見立てるほか、研究対象として文学を用いることがある点が特徴的である。いずれにしても、このふたつの学問領域は文学と比較的深いかかわりを持ったものであるといえる。
 なお、意匠論の分野の研究者には東京大学と東京工業大学出身者の系脈が多い。すなわち、極論すれば、狭義の建築論は関西の学問で、意匠論は関東の学問である。学問の地域差を語るなどとは、多様性の時代にそぐわぬ乱暴な物言いかとも思われるが、しかし、実のところその点が最も顕著に異なる点であると思う。
 すなわち、関西は思惟的(観念的)であり、関東は即物的(造形的)なところがなくはないといってしまえなくはないのではないか。ヨーロッパではかつて、北方は観念気質、南方は造形気質といわれたことがあったようであるが、これと日本の東西の気質の違いも似たところがあるのではないか。


建築業と文学

 建築学と文学との関わりは以上のようなものであるが、一方の、建築業と文学との関わりも全くないわけではない。
 建築の世界で文学にしばしば言及しているのは、磯崎新氏(1931- )とその弟子の八束はじめ氏(1948- )といった、戦後日本のラスボス建築家・丹下健三(1913-2005)の弟子筋の建築家をはじめとして、雑誌「10+1」に寄稿していた教養主義的な若手建築家らなどが挙げられる。そのほとんどは、建築設計を生業とする人々であり、批評を専業とする文筆家ではない。かつては建築評論を生業とする浜口隆一(1916-1995)や川添登氏(1926- )といった論客が存在したが、そういった人がいなくなったという囁きが昨今は合唱となって聞こえてきている。
 建築界では文筆業を生業とする人のほとんどは、研究を専業とする大学教員(しばしば建築史家と呼ばれる人々)か、「日経アーキテクチュア(以下日経アーキ)」をはじめとする建築系雑誌の元記者らである。因みに日本で最も読まれている(≠売れている)伝統ある建築系雑誌「新建築」の編集経験者の多くは、文筆家ではなく、その交友関係を活かした建築関連イベントや講演会のコーディネーターとして独立される方が多い。
 これは、「日経アーキ」では作品紹介の記事が本誌記者によって書かれているのに対して、「新建築」では、原則として作品紹介の記事が建築家自身によって書かれていることに起因する現象であると考えられる。
 すなわち、「日経アーキ」は建築を取材して執筆する文筆業を職能とする社員によって誌面が作られ、「新建築」は、建築家から応募された原稿を査読して掲載作品を選定するコーディネート業によって雑誌が作られている。
 先述の建築評論家・川添登氏は1954年まで「新建築」誌の編集長を務めた。その当時の編集者だった面々は、ある事件をきっかけに全員独立を余儀なくされるが、彼らもその後は在野の評論家としての道を歩んでいった。管見の限り、それ以降の同誌編集者で評論家の道を歩んだ方はおられない。


建築家であり文芸家である人々

 建築と文学の両方に取り組んだ人物も少なくない。
 その代表といえばなんといっても立原道造(1914-1939)で、彼は四季派の詩人としては高校の国語便覧に半頁を割いて掲載されるほどに著名であるが、晩年(といっても20代後半)には建築設計を生業とし、建築家として嘱望されつつ短い生涯に幕を閉じた。立原の著した小論「住宅・エツセイ」では、建築と文学とを中空のボールの表裏に見立て、その両面を持って自己のアイデンティティが確立されていることが示されている。
 そのほかには、たとえば、大成建設で「ホテルニューオータニ」の設計を統括し、その後日本大学教授となった清水一(1902-1972)は、エッセイストとしても著名で、1956年に『すまいの四季』で日本エッセイストクラブ賞を受賞している。
 また、住宅作家として名高い建築家の渡辺武信(1938- )は、映画評論家としても著名で、『映画的神話の再興―スクリーンは信じ得るか』や『日活アクションの華麗な世界―1954-1971』などの映画評論を著している。それのみならず、渡辺氏は、詩人としても活躍し、詩集をいくつも出している。
 京都精華大学教授で建築家の鈴木隆之氏(1961- )は、小説家としても『ポートレイト・イン・ナンバー』で群像新人賞を受けている。
 東京芸大建築科出身の松山巌氏(1945- )は、建築設計を経験した専業小説家として最も成功した人物と目される。松山氏は、建築評論家としても建築家らから一目置かれる存在であるが、なんと言っても文学賞の受賞率高さは驚異的である。
 東工大建築学科出身で一級建築士の資格も持つ稲葉なおと氏(1959- )は、建築設計や不動産関係の職を経た後に、カメラを片手に世界中のホテルを巡り、その経験をもとにした長編小説『ゼロマイル』等を著す写真家・紀行作家として活躍されている。
 ミステリー作家の森博嗣氏(1957- )はご存じのように元名古屋大学建築学科助教授であり、コンクリートの材料特性等を解析する研究者であった。
 そういえば女優の菊川怜の東大での卒論もコンクリートに関する研究であった。いずれも「コンクリートから人へ」(建築から文学へ)と関心が移った事例である。
 その他にもまだまだいる。沢山いて挙げきれない。そもそも“建築家”とは、芸術的に優れた建物をつくっていて、なおかつ自らの建築の考え方を文章に書いている人間のことを、大抵は指す。なかには何も語らずに感性的に素晴らしい建物をつくっているだけの建築家もいるが、そういう偉人に関しては、他の誰かが評して書いてくれた著作が多数ある。


建築から文学へのまなざし

 建築家はしばしば映画監督や作家に憧れるといわれるが、これは、建築のかたちや空間が、現実の様々な制約によって決定される不自由な創作物であることと関係する。極論すれば、ほとんど法規と経済によってのみつくられるというような側面も大きく、それがために、自身の構想を具現化することに命を掛けてそれをビジュアルに(もしくはリテラチュラルに)表現することが出来る映画監督や作家の方が建築家たり得ているのではないか、という嫉妬心から自ら発せられる言葉による。
 建築学にしても、やはり最終的には建築をつくるための学問であるわけだから、“人生とはなにか”という目標に向かって思想を述べたてるような、純粋に真理を探究するような本質的な研究は歓迎されず、どこかでプラグマティックな社会性を頭の片隅におきながら学問に勤しまねばならないような即物的な側面がないともいえない。
 しかし一方で、というよりも、だからこそ、建築は社会を創造することに最も寄与している分野だという自負を持たざるを得ないともいえる。そのため、社会学者や経済学者、憲法学者などとの討論の機会を持ち、学際的に活動する研究者(≒必ずしも建てるための学問として建築学に取り組んでいない学者)が日の目を見る機会が多い。
 建築意匠論、とりわけ図学という死んだ学問を志して生きる筆者にとっては、文学と建築とのあまり生き生きとはしていない関係に着目することは、すなわち生き生きと生きるために生きることを考えることにほかならない。




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