「ナナメの夕暮れ」を読んだ。

 芸人で漫才師である、オードリー/若林正恭さんの著書「ナナメの夕暮れ」を読んだ。エッセイの本を買って読んだのは人生初めてだった。
 オードリーというコンビは前から好きでM-1もおもしろ荘もリアルタイムで見ていた。だが、それ以降のオードリーを注目して追っていたわけではなくテレビで偶に見るぐらいでオールナイトニッポン(以降、ANN)も番組を追いかけるほどのファンではなかった。春日さんのトゥース!で笑ったり若林さんは人見知り芸人でテレビ出てるのを共感するだけだった。あと検索ちゃんの漫才。
 オードリー熱が再燃したのは数年前YouTubeに上がっていたANNの武道館ライブでのイタコ漫才を見たときに着火し、そのままの流れでANNを暇な時間に聴いてみたら面白かった。ちゃんと聴いたことがなかったのでラジオっぽいラジオかと思って身構えていたがかなりお二人のフリートークが全体8割を占めていて最後にちょっとはがきコーナーがあるだけ。企画やコーナーでガチガチに固められていた感じだと思って肩透かしを食らった。
 その部室で喋る感、内輪感が心地よかった。まあ部室で喋るってことが殆どなかったので想像の感覚だが。

 キャンプファイヤー位に火柱が立ち上がったオードリー熱だがそこで手にしたのが「ナナメの夕暮れ」だった。これは若林さんの著書の中で3作目になり、雑誌「ダ・ヴィンチ」で連載していた数年のエッセイの集大成となる。
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167918057  文芸春秋公式HP


 手に取った当初、エッセイというものを読んだことがなかったのでどういう感情で読み進めていいのかわからず困った。小説は作中の世界にのめり込めば勝手にそのまま感情移入できていくものなのだが、エッセイ本は違う。現実の人が実際にあったこと話したこと思ったことが書かれている。
 困惑しながらも取り敢えず頭の中の白い空間に仮想の若林正恭を生み出して書かれている内容の再現VTRを描きながら読み進めることにした。
 読んだ後の話になり、「生意気だなぁ」と言われるかもしれないがエッセイと言うものは他人の心情に寄り添い理解し経験していくものだと感じた。
 若林さん程ではないがぼくも人見知りの気質がある。ぼくの場合は初対面の人間には話しかけられるが、仲がどんどん深まっていくと話せなくなっていく。初対面の人に失礼なことを言っても「どうせ一回二回しか会わない」の考えから仲が深まるとこれが反転していく。仲が深まり、話して笑い合っていくとこの関係を崩したくないなという気持ちが高まり話せなくなっていく。ここ最近これが顕著に現れている。

 本音を言えない社会や先輩芸人との飲み会へのうんざり感、過去の自分に対する嫌悪と対峙。年齢とともに重なるネガティブ衝動。気まぐれに誘われたゴルフにハマっていく過程。
 テレビでは見えない若林さんの姿が多少なりとも記されていた。
 その中でも自分が一番興味を持ったのは"オリジナル"という表題のところだ。
 番組オーディションのアンケートの趣味の欄に利きキャベツと書いた先輩芸人を真似て"趣味:利きレタス"と書く暴挙にでた春日さんに笑い、漫才の作り方がわからず、先輩芸人の漫才を見ながら作ったものは「先人がいる」と却下され、「オリジナルの漫才を作れ」と注意される若林さんに驚く。勿論世間で言うズレ漫才と呼ばれるあの形はちょっとやそっとでできるものだとは思ってはいない。
 だがあの若林さんが他の芸人、特に先輩芸人の漫才を真似て漫才を作っていた時期があるというのが小さな衝撃を受けた。それもこれもぼくが勝手な期待をしていただけなのだが。
 その中の一文を拝借させてもらうと、
「誰かの真似する以外の創作の方法を、21歳のぼくは知らなかった」
これは結構考えさせられた。
 
 浅いながらもやってきた自分の創作活動や子供ころの記憶を思い返した。学生の頃の美術の授業は大体が似顔絵や風景画を描いてみましょう。国語や現代文や道徳で書かされる読書感想文はある種のオリジナルかもしれないが、完全な0→1ではない気がする。
 授業で先生が「空想上の人物を描いてみましょう」「物語を書いてみましょう」って話は一度もなかった。勿論学校という施設の中で点数をつけて優劣を示さないといけないのはぼくでも分かるから、なぜ言わないんだと声を荒らげることはない。
 27歳になって絵を描いたり小説を書いたりする事がある。大抵は完成する前に飽きてしまって断念してしまうのだが。
 オリジナルの作品を作っている意識でも手を動かしているうちに「この構図、別の人の絵でみたことあるな」「あの人の話に似てるな」と次第に他人の作品に寄っていく。そもそもオリジナルのものを作るっていうのはこの無尽蔵なコンテンツがあふれる時代には無理なことなんじゃないかと思う。
 前に趣味でオリジナルの生物を創ってみようしたことがある。結果はただのいろんな動物の形と色がぐちゃぐちゃに合体しただけのキメラができた。
 「なんか見たことあるなぁ」の連続だった。

 その後若林さんはオリジナルのネタを持っている先輩芸人に近づき学び、自分と相方の「特性」を利用し新たなネタを引っ提げてネタ見せに挑んだらしい。そして独創的な作品を見せた後は必然的に風当たりが強くなるようで、他所の芸人にごちゃごちゃ言われていたそうだ。
 出る杭は打たれると言われるが、出ることすら出来ていない自分からすれば打たれるまで出れることがとても輝いてみえる。


 このエッセイ本には花火の話が何個か出てくる。若林さんのストレス発散の方法の一つであったり、アイスランドへ旅行に行った際のカウントダウン花火の話を読んでいると、そういえば最後に自分で花火をしたのはいつだろうと考えてみる。おそらく小学校高学年ぐらいが最後だった気がする。
 花火をするときの感覚を久しく味わってなかった気がする。ライターで火をつけて手持ち花火から滝のように出る火花を急に見たくなってきた。火花を地面にふりかけてアスファルトが白く焼けていくのが好きだった。

 久々にあの花火を見たくなってきた。花火と同じくらいの熱量が今自分の中にあるnoteに降り掛かっている。このnoteが白く焼けていくまでの熱を放出できればいいなと思う。


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