インド旅|ガンジス川のほとりで(前編)
AM5:00
心地よい列車の揺れ。狭い寝棚に猫みたいに丸くなって、私はスヤスヤと気持ちよく眠っていた。どこか遠くから、友人が私の名を呼ぶのが聞こえる。私は静かに目を開けた。
あれ………。
まずい!早く支度をして降りねば!列車が出発してしまう!!
寝台列車の固い寝棚の一番上で熟睡していた私は、焦って飛び起きた。寝れないはずだと思っていたのにぐっすりと深い眠りに落ちていたことに気付いて動転し、一気に焦りが押し寄せる。心臓がバクバクと音を立てている。
眠い目を擦りながら10kgのバックパックを背負って3段ベッドのはしごを一段ずつ踏み外さないように急いで降りる。靴下がつるつると滑るのがもどかしい。早く、早くしなきゃ。
夜明け前のVaranasi駅は薄暗く、灯りの少ない無機質なホームは霧がかかっていてどこか不気味だ。寝足りない気持ち悪さを抱えたまま重たいバックパックを背負い、ふらつく足取りで駅の外に出た。駅前にはたくさんのリキシャが待ち構えている。どの街でも同じ光景。
まだ肌寒い夜明けの街をリキシャは走る。頬を撫でる風が気持ちいいなと一瞬思ったが、忘れるなここはインド。大きく息を吸い込んだら、埃っぽい空気にたちまちむせた。大きな交差点の前で止めてもらい、ここからは歩いてガンジス川を目指す。もうすぐ夜が開けそうな気配がしている。
いつの間にか人が列となり、皆が同じ方向へ向かって歩いている。沐浴に来たインド人も、観光客も、皆ひとつの流れとなってガンジス川へと流れ込む。まるで何かに吸い寄せられるかのように。
ガンジス川、初めまして。
ここがこの旅の最終目的地。
死に一番近い川に、私はとうとうやってきたのだ。
インド旅が決まったとき、特別インドに思い入れがある訳ではなかった私は友人にどこに行きたいかと聞かれ困った。こういうときに思い浮かべるのは世界史とか地理の資料集で、何か私の記憶に引っかかっているものがないものかと意識を集中する。「インド 観光」とググったら負け。後付けの"行きたいところ"のために、過酷な旅を強いられる筋合いはない。
その昔、東京外国語大学に行きたかった私は文系には珍しく高校で世界史を専攻した。それなのに大国インドの記憶は全然ない。覚えていることはと言えば、嘘だろと思うほど長い外大の二次試験のリスニングのテストにインド訛りの英語が登場したことくらい。クラクションの音などの雑音が混じった、インド真空パックみたいなあの録音テープの騒々しさが今なら実感を持ってわかる。
今にもちぎれそうな劣化した記憶の糸を用心深く手繰り寄せると、ひとつだけ釣れた記憶があった。
ガンジス川はどうだろうか。
大いなる川、聖なる川、世界一汚い川。
その川について知っていることはほぼないに等しい。めっちゃ長くて、めっちゃ広くて、めっちゃ神聖で、でもめっちゃ汚い。ヒンドゥー教の聖地で、人々がそこで沐浴したり洗濯したりする。知っていることは本当にそれくらいだった。
一体どんな川なんだろう。
私が生まれ育った地にも美しい川がある。日本有数の採水地で、蛇口から天然水が出る地域(インド人並の嘘っぱち、最高級の水道水ではあるが)。日本アルプスの山々から流れ落ちる川は狭く、荒々しく、どこまでも透き通っていて、冷たい。小さい頃の夏の遊び場。夏野菜を冷やしたり、サワガニを捕まえたり、カルガモの親子を追いかけたり、夜にはホタルを見たり。
川に分類されるものの中では、ガンジス川の対極にあるような川だよなぁと思う。地元の川が湧き出たばかりの元気有り余るピュアピュアな5歳児だとしたら、ガンジス川は年齢不詳で大地を操る力を持っている長老みたいだ。良いものも悪いものも、この世のあらゆるものを取り込んで膨張し、どこまでも広く長く続いてゆく宇宙のような。
「混沌」
インドの旅noteの中で繰り返してきたこの言葉は、ガンガー(以下、親しみを込めてそう呼ばせてもらう)を形容するにもぴったりだ。混沌の国インド、混沌の川ガンガー。
私がそこで目にしたものは、全てが奇妙で理解不能だった。このnoteだって、カースト制度の歴史や、ヒンドゥー教や仏教のこと、インドの地理についてある程度知識を蓄えてからでないと人様の目に晒せないと思うくらい、わからないことが多すぎる。推察するにも引き出しがないし、紐解くのにはかなりの時間を要しそうだ。
恋人が大学生のときに宗教を齧ったと言っていたけれど、こういう国を訪れると同じような力学が働いて、同じような考えに至るんだろう。私にはそれが、たまたま遅めに訪れたってだけで。
世界を紐解くには宗教を知ることは避けては通れない。一番とっつきにくそうなマハーバーラタ(ヒンドゥー教の聖典の一つである大叙事詩)から手をつけようものなら、1冊も読破できずに挫折する未来が見えている。ヒンドゥー教ってキリスト教みたいに伝道師さんとかいないのかな。生身の人間から直接話を聞いたら、まだ頭に入ってくるかもしれない。
仲良くなったインド人からヒンドゥー教の初歩的な話をいくつも聞きながら、仏教とそう遠くなく肌に合いそうな気配を感じた。キリスト教やイスラム教などに感じた思想の"わざとらしさ"みたいなものは感じなかった。純粋に一神教ではないからだろう。
そもそも、私は自分が無宗教な人間だと思ってこれまで生きてきた。盆や葬式など、形骸化した宗教行事をなんとなくなぞって生きてはいるが、そこに意味を感じたことはない。仏教と神道の違いすら知らないし、説法を受けたこともない。それなのになぜだろう。ガンガーに来てから、自分の中に根を張っている仏教的思想がはっきりと輪郭を帯びて浮かび上がってくる。
まず違和感を覚えたのは、人々がガンガーで沐浴をする理由だ。ヒンドゥー教では輪廻解脱を最高のものとして目指していて、ここまでは仏教と同じ。ただ、解脱するための方法が全然違う。浄なるものを体内に取り入れ、不浄なものを避けることで解脱できるという。
聖なるガンガーで沐浴をすれば罪が洗い流され、浄化されるのだそうだ。なにそれ、ずるいじゃん。チュートリアルじゃないんだから。ガンガー行きました、水浴びました、はいクリア!って。そんなうまい話あるかいな。
日本の四国八十八ヶ所巡りも似たようなものか、と思ったけれど。あれはかなり辛い道のりを強いられるので修行的要素が強く、巡ったからOKという訳ではない。巡るという修行を通して、精神鍛錬することが目的だ。そして確か、行き交う人々との心の交流をするという意味合いもあるんだとか。
今述べたような感想が一体私の中のどこから湧いてくるのかと考えると、間違いなく自分の根源的な価値観と照らし合わせているからなのだと気づく。精神を鍛えることが悟りに繋がり、解脱へと導かれるという思想。聖地巡礼をすること自体が救いに繋がるというのは、仏教にはない感覚だ。苦しみからの解放はいつだって、精神鍛錬からしか得られない。(…という感覚が何となくあるというだけで、本気で思ってはいない。無宗教だから。)
きっと家族や先生からの教えや、エンタメコンテンツなど、いたるところに散りばめられている仏教を基軸にした思想の影が、私の当たり前を作り上げてきたのだ。思えば人生で一番読み返した本は、仏教的思想が色濃く投影されている小説だったなあと思い、数年ぶりに本棚から引っ張り出してパラパラとめくってみた。
それにしても、行くだけで浄化作用があるという川が世界一汚染されているだなんて、皮肉すぎて目を覆いたくなる。時代に追いついていない法律に縛られている国家みたいに、ヒンドゥー教徒は大昔の教えに縛られ、聖なる川の幻想を見続けているのだろうか。
宗教は人々の生きる指針であり、教育が行き届いていない国家にとっては最大の教育手法でもある。だから宗教には生きる知恵がたくさん織り込まれている。そうだとしたら、ガンガーに浸かれと言うのは、健康を害す危険性が高いので現代の状況にそぐわなすぎる。
水質汚染による公害病を克服してきた日本のように、ガンガーもいつか政府の浄化作戦が身を結ぶ日が来るのだろうか。日本と違って水域が広すぎるので、とても気が遠くなるプロジェクトだ…。実現する頃にはジェンダー平等や人権などの気運も高まり、ガンガーの風景も、集まる人々の様相も様変わりしていそうだ。
それはなんだか寂しいと、不覚にも思ってしまう自分がいる。過渡期の渦の中にあるインドの、今しかない景色を私はこの目に焼き付けた。ずっとずっと忘れたくない風景だ。
長くなってきたのでこの辺で筆を置くことにする。後編では、火葬場で見たもの、思ったことなどをとりとめもなく書き起こすつもりだ。
世も更けてきたので、今日はおやすみなさい。
また次のnoteで。