基本的尊敬を持ちませんか
「基本的尊敬」とは私のつくった造語です。
「基本的人権」を辞書で調べてみると、
と書いてあります。
人間が人間として当然もっている基本的な権利。
仕事のときに、当然もつべき「尊敬」があるのではないでしょうか、という提案です。
上司を尊敬しよう、みたいな話ではありません。すべからく周りの人に尊敬しませんか、という話です。
仕事をしていると、いたたまれない気持ちになるときがあります。
自分よりも年下の人に対して、無条件に見下し、ただただ悪意のみがある、自分の気持ちを発散したいがために攻撃的な態度をする人を見た時。
自分よりも立場的によわい人に対して、心を傷つけ、自分がただ満足するために行動を行う人を見た時。
そんなんで仕事をしていいわけないじゃないか、と思うのです。
少ないんですかね?そう思う人って。麻痺しちゃってるんですかね。
多くの人を率いて、大きな動きをつくっていくべき人であればなおさら「基本的尊敬」をもっておけよと思うのです。
「こいつ基本的尊敬をもっていないなあ」と感じた相手が、数年後にはだいたいみなおなじく堕ちていっているのを見ていると、なおのこと。早く気づけよ、と。
これは愛のある叱りとは違います。
愛のある叱りは、愛のある励ましとセットであるものです。
その人の可能性を信じて、やってはいけないことを粘り強く知らせ、やるべきことをとことん伸ばす。
叱りは、叱りのみにフォーカスがあたりがちですが、励ましとセットでないと存在しえないものだと思います。
「俺は叱られてばかりだがそれで戦ってきた」と誇らしげに昔を話す人は、自分でも同じ量だけ励まされてきたことを都合よく忘れているだけです。
言葉にしろ、態度にしろ、なんにせよ。人はただ無意味に叱られてばかりの場所にいれるほど強くはありません。
基本的尊敬をもたない人は、遅かれ早かれ、周りから人が消えます。
当然です。自分のことを尊敬してくれない人と長いあいだ一緒にいようと思う人なんていないからです。
肩書きだけで周りによってくる人はいるかもしれませんが、肩書きだけの関係です。カフレです。肩書きなんて安定したものではないですよ。
基本的尊敬をもつためにはどうしたらいいのか、考えてみます。
1.相手が社長でも同じことをするのか、を意識する
いきなりおおげさでした。
でも、これで行動が変わったら、明らかに「人をみて」ますよね。ださくないですか?相手が下だから態度が変わってるんですか?
どこかで「相手が本気を出したら自分のことを倒せる」と思っておくべきではないですかね。10年前かわいかった後輩は、10年後には大きな力をもつ立派な社長になるかもしれない、ということがなぜ想像できないのでしょうか。そんなにあなたの目は正しいのでしょうか。ラッキーじゃないですか後輩が偉くなったら。
2.いまの会社がつぶれた時を想像しておく
いまの時代、ほんとうにわかりません。10年後にその会社があるかどうかなんて。
だいたい、偉そうにする人は、いまのその立場が未来永劫つづくと思っているから偉そうにするのです。偉そうにしていいと勘違いしてしまうのです。その有利な状況は何をしても変わらない、と思ってしまうのです。
そんなわけないですよね。歴史がきもちよく証明しているように、ふんぞり返って周りを考えない人は(もしくはそういう人が集まっている集団は)堕ちていくさだめです。
自分がいる会社がつぶれたときに、「ざまあみろ」と思う人がたくさんいるかどうか、想像してみませんか。
そう思いそうな、迫害を受けてきた人が多ければ多いほど、つぶれる現実味がわいてきませんか。
3つめを書こうと思いましたが、もうかしこまったフォーマットで書くのは疲れました。
とにかく、相手のことをベースとして尊敬する、が足りなさ過ぎないか、と感じるのです。
大切なものは失ってから気づくものです。やさしい人が多いから、失うまでにちょっと時間がかかるから、基本的尊敬がなくてもやっていけるのです。
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