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国語の試験問題から読書の楽しみへ

小学校から高校までの「国語」の授業で、読むことの訓練が12年間にわたり行われ、誰でも読むことはできるようになっている。実際、日本の識字率は高い。

他方で、「国語」教育の問題点も指摘されている。例えば、長文読解ができない、論理的な文章が書けない、発信力が弱い、本(文学)を好きにならない、国語嫌いが多い、等。

そうした現状に関して考えて行くヒントとして、生徒の印象に残った作品名を上げてみると、中学と高校で次のような結果らしい。

中学:竹取物語、走れメロス、奥の細道、等。
高校:羅生門、こころ、山月記、舞姫、檸檬、源氏物語、等。

こうした作品が心に残っているとしたら、生徒にとって大きな意味があるに違いない。

人間の様々なあり方を見せてくれる作品たち


『竹取物語』は、日本人的な心の在り方を私たちに教えてくれる。
一般的に、かぐや姫が月に戻っていくところで話は終わるように思われているが、実はその続きがある。
月に戻る前、姫は育ての親に対する愛情を強く示し(人情)、愛する帝には不老不死の薬を残していく。その薬を、帝は富士(不死)の山に投げ入れる。
そうしたエピソードは、月よりも地上を、不死=永遠よりも現実=時間を好む、日本的な心性を表現している。

太宰治の『走れメロス』と芥川龍之介の『羅生門』は、対極的な倫理観を提示する。一方は、真実の友情の物語。他方は、下人が生き延びるために老婆を犠牲にするエゴイスムの物語。

『羅生門』と同じように、他者の犠牲の上で生き延びる「私」という枠組みは、夏目漱石の『こころ』や森鴎外の『舞姫』にも見られる問題であり、多くの犠牲を出した第二次世界大戦の後の、日本人の心の在り方を考えるきっかけになる。

エゴイスムに孤独感が加わると、中島敦の「山月記」になる。
そして、生きることの孤独感は、「えたいの知れない不吉な塊」が心を常に押さえつけることをテーマにした梶井基次郎の「檸檬」や、「月夜の晩に、拾つたボタンは/どうしてそれが、捨てられようか?」と歌う中原中也の詩「月夜の浜辺」によっても取り上げられる。

こうした作品を通して、国語教育を受ける一人一人の子供たちは、濃淡の差はあれ、自分の中に抱える切実な問題を感じ取っているだろう。
そして、それぞれの作品を通して、自分自身について考え、人とのつながりについて考え、話し合うことで、「自分の考えを根拠に基づいて的確に表現すること」の訓練ができるに違いない。

しかし、現実には、「長時間かけても文章を理解できるようにならない」子供たちが多数発生し、読むことも、言葉で論理的に表現することも十分にできない、という統計結果が出ている。

国語の試験問題


せっかく素晴らしい文学作品に接しながら、なぜ本嫌いが増え、読書離れが加速しているのかを考えるために、国語教育の中で、文学作品について行われるテストの問題を覗いてみよう。

(1)「竹取物語」 ー かぐや姫

A. 次の説明文の、(ア)から(エ)に当てはまる言葉を後の選択肢からそれぞれ選びなさい。

竹取物語は、現存する日本(ア)の(イ)と言われている。(ウ)時代の   初めごろ作られたと考えられており、作者は(エ)である。

【選択肢】: 随筆、軍記物、物語、奈良、平安、鎌倉、最大、最高、最古、貴族、琵琶法師、不明

答え;
(ア) 最古 (イ)物語 (ウ)平安 (エ)不明

B. 以下の文を読み、問いに答えなさい。

今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり。名をば、さぬきのみやつことなむ言ひける。その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。あやしがりて寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。

i. 「もと光る竹」を見つけたときの気持ちがわかる言葉を、原文の中から書き抜いて答えなさい。

答え:
あやしがりて

ちなみに、中学や高校で文学作品に関して提出される読み取り問題は、心理的な動きであることが多い。

ii. 「あやしがりて寄りて見るに」の主語を原文の中から8文字で書き抜いて答えなさい。
(文部科学省の指導要領で、生徒には「文における主語を捉えること」に問題があるという指摘があり、それに対応した問題だと考えられる。)

答え:
さぬきのみやつこ

C. 高校になると、古文として、品詞分解なども入ってくる。


昔、竹取の翁といふありけり

は ー 係助詞
と ー 格助詞
いふ ー ハ行四段活用・連体形
あり ー ラ行変格活用・連用形
けり ー 過去の助動詞・終止形

(2) 太宰治「走れメロス」

メロスには竹馬の友(1)があった。セリヌンティウスである。今はこのシラクスの町で、石工をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく会わなかったのだから、訪ねていくのが楽しみである。歩いているうちにメロスは、町の様子を怪しく思った(ア)。ひっそりしている。もう既に日も落ちて、町の暗いのはあたりまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりではなく、町全体が、やけに寂しい。のんきなメロス(イ)も、だんだん不安になってきた。道で会った若い衆を捕まえて、何かあったのか、二年前にこの町に来たときは、夜でも皆が歌を歌って、町はにぎやかであったはずだが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老爺(2)に会い、今度はもっと語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。メロスは両手で老爺の体を揺すぶって質問を重ねた。老爺は、辺りをはばかる低声(3)で、僅か答えた。

A. 次の漢字の読み方を答えなさい。

(1)竹馬の友  (2)老爺  (3)低声

答え:
(1)ちくばのとも  (2)ろうや (3)こごえ

B.「竹馬の友」の意味として最も適切なものを次の中から選びなさい。

親友、悪友、級友、旧友

答え:
旧友

C. (ア)「町の様子を怪しく思った」のはなぜか。「〜から」に続くように、文章内から書き抜いて答えなさい。

答え:
町全体が、やけに寂しい(から)

D. (イ)「のんきなメロス」とあるが、そうとれるメロスの様子を、文章中から16字で書き抜いて答えなさい。

答え:
笛を吹き、羊と遊んで暮らしてきた

(3)芥川龍之介「羅生門」

A. 次の漢字はひらがなに ひらがなは漢字に直しなさい。

①洛中 ②顧みる ③暫時 ④嘲る ⑤引剝ぎ
⑥ききん ⑦すいび ⑧にごった ⑨きゅうかく ⑩ごへい

答え
①らくちゅう ②かえりみる ③ざんじ ④あざける ⑤ひはぎ
⑥飢饉 ⑦衰微 ⑧濁った ⑨嗅覚 ⑩語弊

B. 以下の文を読み、問いに答えなさい。

下人には、もちろん、なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。したがって、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くということが、それだけで既に許すべからざる悪であった。もちろん、下人は、さっきまで、自分が、盗人になる気でいたことなぞは、とうに忘れているのである

問 i:「下人は、さっきまで、自分が、盗人になる気でいたことなぞは、とうに忘れているのである。」とあるが、それはなぜか。

答え(例)
老婆が死人の髪を抜くのを見て、あらゆる悪に対する反感を感じていたから。

国語教師の大変さ


授業では、こうした設問に対して正しい答えができるよう生徒たちを導くことが第一の課題であり、国語教師の大変さがひしひしと感じられる。

その上で、それぞれの文学作品の面白さを生徒たちに実感させ、各自の感受性に基づきながら、自分なりの解釈を論理的に組み立て、説明し、ディスカッションすることを、限られた時間内にすることなど、ほぼ不可能だろう。

生徒にテストで満足できる結果を取らせることと、作品の素晴らしさや美しさを味わい、自分とは違う価値観や文化を知り、そこから自分の生き方を考えるという、二つの課題を同時にこなすことは、決して容易なことではない。

学校教育では、テストを無視することはできないのだから、「自ら本に手を伸ばす子供を育てること」は大変に難しく、読書離れが進んでもいたしかたない。

未知の世界、異なる自分と出会う楽しさ

(1)読者の心理の投影になりがちな心理分析

そうした現状を認識した上で、「読むこと」に関して、気になることがある。
それは、中学や高校の試験問題で多く見られるように、登場人物の心の動きを理解させ、心情や心の変化を読み取るために、「なぜ」とか「どのように」という質問が多くなされること。
そうした読み方では、登場人物たちの心理分析に主眼が置かれることになる。

心理をたどる場合、読者は、ちょうど身近な人の心の動きを知ろうとする時と同じように、自分の知性や感性に基づき、登場人物たちの行動や言葉から心の内を知ろうと努める。

その際、作者の人生の断片を参考にすることはあるかもしれないが、多くの場合、それ以上の知識 — 作品が書かれた時代の状況や思想、文学的な概念、文学以外の芸術との関係等 — を参照することはあまりない。
そのために、読者は自分の思いを作品の解読に投影し、気づかないうちに自分の思いを作中人物の中に読み取るということも、しばしば起こる。

そうした読み方をすると、「走れメロス」を読んでも「羅生門」を読んでも、「私はこう思う」という感想になってしまい、太宰治と芥川龍之介の作品がそれぞれ何を表現したのか、見えないままで終わってしまうことにもなりかねない。

(2)未知の世界と出会う楽しみ — 読書意欲を高める

「羅生門」を例に取ると、いろいろな解説やテスト対策などに目を通しても、解説者による心理分析に終始していることが多い。

その一方で、芥川龍之介が、作品を執筆中に、谷崎潤一郎の耽美主義に対抗し、フランスの詩人シャルル・ボードレールの『悪の華』を頭におき、羅生門の上の地獄を思わせる映像を通して、善悪を超えた美を生成しようとしたのではないかといった解説を目にすることはなかった。

『悪の華』などをいきなり紹介したら、生徒は驚き混乱するだろう。
しかし、文学作品には多様な読み方があり、それは作者の人生と直接関係する知識だけではなく、文化的、思想的、芸術的な知識とも関係することを知ることで、まったく新しい世界が広がる可能性もある。

明治維新以来の西欧文明の日本に及ぼした影響、その時代の日本人の考え方や感じ方、私小説という日本独特の文学ジャンルの発生とそのベースとなる自然主義に対する反発としての耽美主義といった様々な事象に関する知識を得ることで、現在の日本のベースとなった時代の様々な側面と出会うことになる。

これは一つの例だが、時には、一つの文学作品を通して未知の世界に出会う驚きを体験させることも、「読書意欲を高める」一つの方法だと考えていいのではないだろうか。

どの作品を読んでもいつも自分と出会う。そうした読書も一つの読書法ではある。それと同時に、一つ一つの作品を読む度に何かしら新しい発見があり、新しい知識を得ることで自分の視点が豊かになり、それまでとは少しだけ異なる世界観ができてくるといった読書ができれば、さらに楽しいに違いない。

子供の頃読んだ本を大人になってから読み返すと、まったく違う印象を受けたり、より深みのある意味を読み取ることがある。
当たり前のことだが、本の内容が変わったからではない。
二つの読書の間に自分が変わったからだ。経験によって人は変化し、その変化が物の見方を変える。

一冊の小説を読み、それまで知らなかったことを知り、新な世界観に触れることは、実人生の経験に匹敵する経験になる。
そのことによって、自分が1ミクロンでも変わり、物の見え方が変化するのであれば、たとえそれを成長と呼ばなくとも、楽しい体験になるはずである。

「読む」体験がそうした変化を導くのであれば、テストで正解を取るのと同様に、気分がいい体験になる。

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