見出し画像

日本を民主主義政治から読む

現代の社会において、議会制民主主義は正常に機能しているのだろうか。それとも、古代ギリシアのように、衆愚政治と見なされる政治制度になってしまっているのだろうか。
その問いは、政治をよりよく機能させ、人々の日々の暮らしをよりよくするために、今こそ必要とされると考えたい。

国会議員の選挙にしろ、地方議員の選挙にしろ、選挙がある度に投票が呼びかけられる。そして、一定数の人々は、自分たちの権利として、あるいは義務感に駆られて、投票所に足を運ぶ。
同調できる意見を持つ人を自分たちの「代理」として選択し、選ばれた人々がその意見を反映した政治を行うことを前提とした「議会制民主主義」が日本の政治制度である以上、投票しないことは選択の権利を放棄することを意味する。だからこそ、投票は義務なのだと言われることもある。

議会制民主主義は、デモ(古代ギリシア語で「民衆」を意味する)+クラシー(支配)を実現することを可能にする一つの制度であり、一つの共同体において多数の意見を実現する政治を行うために適したものといえる。
ただし、その制度が適切に機能するためには、投票する側の人間に二つのことが求められる。
1)一定の知見と判断力
2)選択された人々の実現する政治を検証する意識

(1)政治を検証する制度と意識

国会は議院内閣制を取り、代議士たちの選挙によって首班が選ばれ、その首班が内閣を形成する。従って、立法府(議会)と行政府(政府)の分離は明確ではない

地方の場合には、大統領制と同様、首長も直接選挙によって選ばれるため、行政府の長(知事、市長など)と立法府の議員の選択が異なる可能性もある。その一方で、日本の場合、対立するはずの政党が同一の首長に相乗りすることもある。

いずれにしても民衆(デモ)によって選ばれた代議士や首長が政策を立案し、行政機関を通して政策を実行する。(行政機関が政策も立案し、代議士たちは議会で立法化し、予算を可決するという役割分担が実際に近いかもしれないが。)

そのようにして、民衆の生活に直結する政策が実行されるのが原則だが、日々の生活においてはルーティン化されていることが多く、私たちは政治にあまり敏感でないことが多い。

時々マスコミで取り上げられる話題があると大きな関心を抱くのだが、一過性のものに留まり、結果を検証するところまでいかないというのが現実である。

分かりやすい例として、東京オリンピックでの出来事を取り上げみよう。2021年2月、東京五輪組織委員会の会長だった森元首相が、「女性蔑視発言」を理由に会長を辞任した。
その発言とは、「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかります」というもの。それがマスコミで取り上げられ、大きな問題になったのだった。
その後、会長は橋本聖子氏に代わり、組織委員会の構成メンバーに女性が加えられた。
その際、評議員会で理事数の上限を10人増加する定款変更が決定され、理事数の上限が35名以下から45名以下になり、それまで33人だった構成メンバーに12人の女性が新たに選出され、女性理事の比率は約20%から42.2%(45人中19人)に高まった、という報道がなされた。
そして、その報道をもって、「女性蔑視発言」に関する話題はほぼ収束した。
では、この出来事の検証は行われたのだろうか?
女性理事の比率が40%を超えたことで、理事会の決定にどのような変化があり、実際に何がオリンピックに反映されたのだろう
理事数の上限を増やしたことで、予算の執行も行われたはずである。しかし、理事の報酬に関しては、不透明なままで終わってしまった。
大会組織委員会の役員報酬は、月10万円から同200万円まで20段階ある規定に従っていたはずだが、誰が、どれだけの報酬を受け取ったのかという詳細は全く明かされていない
「女性蔑視発言」の結果として役員12名の増加が引き起こされたのは事実であり、その変更に伴う結果に関する検証が行われる必要があった。
しかし、マスコミにリードされた人々の関心も、女性理事の比率が42%を超えたというところで終わり、その後についての検証は行われなかった。

この問題はそれほど重大な案件とはいえないが、一つの例としてはわかりやすいだろう。
より大きな問題として、政党助成金がある。
田中角栄元首相を中心とした汚職が大きな話題となり、ロッキード社からの献金や裏金などが取り上げられ、特定の企業からの影響を断つためという理由で、政党助成金の制度が作られ、現在も運用されている。2023年度も、約315億円が政党に交付された
だが、廃止されるはずだった企業献金はそのまま残され、政党助成金制度が適切に機能しているかどうかという検証も行われていない。
多額の税金の使途が不透明なことが許されていいはずがないのだが、制度設計の段階でチェック機能が働かないようになされていた
それが問題になることはなかったし、現在でもその状態は続いている。

結局、選挙によって選ばれた代表者たちが行う政治の結果を検証する制度がなく、その意識もあまり持てないために、いくら選挙の重要性を訴えられても政治に関心を持てないという現状がある。

(2)選挙と世論の形成

社会の構成員が選挙によって代表者を選び、選ばれた代議士たちや首長たちが意志決定を行い、行政が政策を実行するという制度の民主主義において、最も根底にあるのは、選挙権を持つ有権者に対する信頼である。
つまり、選挙をする人間が、選択権を行使するだけの見識を持つことが前提となっている。

日本で最初に選挙制度が制定された1889(明治22)年には、税金を15円以上収めていることが条件であり、人口の約1%がその条件を満たし、選挙権を有した。
それに対して、現行の制度では、「年齢」という基準で判断される。
2015(平成27)年に、公職選挙法の一部が変更され、年齢満18年以上の国民が選挙に参加することができると定められた。

18歳になれば、日本国民の誰もが選挙する権利を持ち、自由に自分の意志を表明できる。
(唯一の例外は、禁錮以上の刑に処されている犯罪者で、彼らはその間、選挙権も被選挙権も持てない。ただし、執行猶予中であれば投票権は失われない。)

もしこの18歳という基準による資格に異議を唱え、最低限の知識や判断力を確認する資格審査を行うなどと言えば、差別主義者と非難されるに違いない。
全ての人間が平等であり、自由に考え行動できることが、自由主義に基づく選挙制度の基本なのだ

(3)選挙の現実

2022年の参議院選挙の場合、有権者数は約1億543万人。
比例代表の結果を見ると、総有権者数の1%強の120万票、有効得票数の2.4%程度の得票を獲得することで、一つの政党が一つの議席を獲得するという数字が示されている。

こうした制度の中で、話題になった東谷義和(ガーシー)元議員は約27万票を獲得し、N党から当選。
個人として最も少ない得票で当選したのは、維新の青島健太議員。得票数は約3万3千票。

現在の選挙制度において、そして、参議院の比例代表の枠組みでは、この結果が民意の反映ということになる。

では当選後、選出された議員たちはどのような活動をしているのだろうか。
東谷義和(ガーシー)元議員は一度も参議院の議場に姿を現すことなく辞職。れいわ新撰組の2位で当選した水道橋博士元議員(得票数約11万票)も病気のために辞任。
彼らは有名人であるためにニュースになったが、それ以外の現職の議員たちの活動については、ほとんど報道されない。
逆に言えば、有名であれば話題になるが、そうでなければ取り上げられることはほとんどない。

そして、同じことが選挙前にも当てはまる。
一般論として言えば、著名であれば話題になり、話題になれば一定数の票が集まる。
そのために、名前の知られたタレントなどを候補に加える政党が複数存在する。
例えば、N党の総得票から東谷義和(ガーシー)元議員の得票数を引くと、総数は100万票以下となり、単純に考えると、N党は議席を獲得できなかったかもしれない。

その結果を見ると、全有権者の約1%強の得票を得ることで一つの党が一議席を獲得でき、そのための有力な方法が、マスコミやソーシャルメディアで名前を知られた人物を候補者に加えることだということがわかる。

(4)意見形成の現状

現代における問題は、質の異なる多様な情報が大量に流れ、真実性の判断ができない状況がますます強まっていることにある。

テレビや雑誌といったマスコミだけではなく、Facebook、Twitter、Youtubeなどのソーシャルメディアで自由なオピニオンが発信され、受信者は、情報の正否を判断することが困難であるために、自分の思想や感情に適合するものをそのまま受け入れ、自らも拡散していく、という状況が広がっている。

インターネットが普及する以前にも、家庭内や居酒屋など限定された空間の中で、必ずしも根拠のあるとは言えない思いを吐露し合うことはあった。
例えば、野球に関して、プロの選手の技術を素人が自由に批判し、ああすればいいとか、こうすべきだとか、自分たちなりの技術論を展開する。しかも、確信を持って。しかし、それらのオピニオンは仲間うちだけに留まり、パブリックの場に拡散することはなかった。

ソーシャルメディアの普及に伴い、その状況が大きく変化し、広がりを持つようになってきた。
根拠がなかったり、偽りだとわかっていても、バズることで話題になり、再生回数や閲覧数を増やすことを目的として、感情に訴えかけるような情報が流される。
それがある一定数を獲得すると、一つの「世論」として受け止められ、マスコミで取り上げられることもある。

もちろん、真実性に基づき、根拠を持った情報も発信される。
しかし、どの情報が正しく、どの情報は根拠に乏しく、フェイクであるのか、判断することは難しい
とりわけ、映像さえ精密に加工できる現在において、「百聞は一見にしかず」という格言は通用しない。見たからといって、事実とは限らない。

以前であれば、マスコミは中立で公正な情報を提供するものと素朴に信じられていたが、現在ではマスコミに対する批判が公然と行われることもあり、マスコミを批判することで、信憑性を得ようとするソーシャルメディアもある

しかし、そうした中でも、テレビの影響は相対的に大きい。
ワイドショーと呼ばれる番組の視聴率はニュースよりも高く、感情に訴えかける傾向のある情報が好まれる。居酒屋談義のテレビ版なので、親しみやすいのだろう。
そうした番組で流される情報が、「世論」を形成する際にかなりの部分を占めるファクターになることもある。

大手マスコミが決してニュートラルでないことは、東京オリンピックの汚職事件における電通の扱いや、ジャニーズの性的加害事件だけからも理解できる。

電通の場合には、テレビ局の収入源である広告主との仲介という重要な役割を果たす企業であるため、慎重な姿勢が見られる。
汚職は報道するが、電通や博報堂など、テレビ局の収益に直結する企業に対して責任を問う声が大きな世論にならないように配慮する。

ジャニーズのタレントはテレビの視聴率に貢献する度合いが大きいために、ジャニーズ事務所との関係を悪化させることはテレビ局にとって不利益になる。その場合には、報道にストップがかかる。
ジャニーズ事務所が事件に関する見解を公表するのを待ち、つまり、当事者の準備が整ってからでないと、報道に踏みきれない。

この二つの例は、大手マスコミが意図的に選択した戦略だと思われるが、客観的に情報を流しているつもりでも、実は一つの視点からのみの情報ということもある。

2023年5月のG7広島サミットが日本では大きな話題になった。そして、それが「世界中で注目されている」かのように報道されることがある。
しかし、例えば、フランスのニュース番組での扱いは小さく、原爆慰霊碑への献花やゼレンスキー大統領の参加といった映像が流される程度でしかない。
G7に加盟する西側諸国に同調しない国々で、G7の扱いがどれほどのものか想像してみると、
ことがわかるだろう。

また、「日本がG7の議長国」、「日本はアジアで唯一のG7参加国」と誇らしげに語るコメントは、一定数の日本人の自己イメージを満足させることはあっても、それ以上ではない。
前回のサミット(2022年)がどこで行われたか覚えていて、議長国に対してなんらかの感情を持った日本人がどれだけいるだろう?
G7サミットに関する報道は、どんな報道であっても、意識的あるいは無意識的に、なんらかの視点に基づいていることを教えてくれる。

こうしたマスコミ情報を私たちは毎日のように受け取り、ソーシャルメディアからの情報も加わり、なんらかの考えを抱き、発信もする。
そして、それらが集積され、世論が形成される。

世論とは一定多数の人々の思いを代表するものであり、選挙の際には、得票数として具体化される。
2022年の参議院選挙の比例代表を例に取ると、一つの政党が総有権者の1%の票を得れば、一つの議席を獲得した。
日々流通する情報が選挙に大きな影響を与えうることが、この結果からも見えてくる。

(5)議会制民主主義における選挙

議会制民主主義という政治形態において、選挙は決定的な重要性を持つ。
その選挙の結果を左右するのは、選挙する側にいる人間=民衆(デモ)であり、現在の日本では、18歳以上であれば、全ての国民に選挙権が付与される。

もし政治があまりうまく機能していないとすれば、問題は、このシステム自体にあるか、あるいは運用にあるはず。

システムの理念は、全員参加側の政治
全員の中から代表者を選び、選ばれた者たちは他の人々の望みを反映した政治を行うこと。

運用に問題があるとしたら、選挙権を付与する基準として、選挙民が選択するに相応しい見識、及び代表者たちが行う政治を検証する意識を持つかどうかを問う必要があるだろう。

現代社会の難しさは、あまりにも情報が多様かつ多量であり、何が事実に即するのかさえ分からない混乱した状態にあること。
そして、多くの場合、全ての情報がなんらかの意図を持って流されていることに無関心であり、自分の思想や感情に適合する情報や意見を正しいと見なす傾向にあること。

その傾向は、一つの世代、たとえば若者に限定されるわけではなく、社会全体にかかわっている。
比喩的に言えば、居酒屋での仲間うちの素人談義が、社会一般を覆い尽くしている状態。

こうした状況の中で、議会制民主主義が衆愚政治となる危険性がないとはいえない。
政治参加の機会を逃さず選挙に参加しよう、と言うだけでは決して政治が改善しないことは確かである。
投票すれば、有権者の意見が反映した政治が行われる。そうした考えが幻想にすぎないことは多くの人がわかっている。

問題はそれ以上に、有権者の意見がどのような情報に基づいて形成されたもので、本当にそれが民衆(デモ)のための政治を行う糧になるのかどうかを問うことだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?