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書を一献(9) 「椿井文書」

 歴史に関する所謂史料を見るにあたり、当然予期すべきであるにもかかわらず私がほとんど思いつきもしなかったのが、伝わっている史料が作成された時点ですでにねつ造された偽文書である可能性です。100年、200年、あるいはそれ以上の過去から本当に伝わってはいて、昔の物であることそれ自体は嘘偽りないのですが、歴史的事実がもとから全く反映されていない偽文書が、過去に作成されて伝わっている、という可能性ですね。
 偽文書の可能性とその検証については、歴史学等の専門家にとっては当然のことである様で、そのあたりの姿勢をさすがであると感嘆したり、逆に素人が気付かなくても専門家にとってはそれが普通なのだと思ってみたり、色々と不安定な考察をしてみるわけですが、そんな中でそれなりに衝撃的だったのが、本書「馬部隆弘、『椿井文書』、中央公論新社」です。中公新書です。
 本書が対象としている「椿井文書」は、江戸時代の後ろの時期に椿井政隆という人物が、各地の発注を受ける形で、その時点で始めから事実ではない史料を騙る偽文書をねつ造したものとのことです。しかもそれがひとつふたつではない、確認されている物がまとめて「椿井文書」と呼ばれる一群の文書になっている様です。
 そして、そこに様々な社会的要請と研究上の視点から、史料としての価値がないです、というひとことでは済まされない、一筋縄ではいかない諸問題の存在について、本書からうかがい知ることができます。
 偽文書が発注された当時の事情はさすがに直接的に考慮する必要は現代においてはあまりない(しかし完全に無いわけでもないのがまた厄介という印象も受けます)と思うのですが、しかし間接的影響は現在も存在し、それが研究を行うにしても色々と気遣いをしなければならない所なのであり、何やら大味な感想で申し訳ない所ですが、まあ、大変そうです。
 まず、正当な歴史研究を考える際に椿井文書の様な偽文書は単純に邪魔になると思われます。そして、椿井文書そのものを偽文書であることをわかった上で研究対象とする考え方も当然存在しますが、歴史研究の中でのその意義の求め方や慣習的な研究者の価値観の置き方による、研究そのものに対する意見の相違等もある様子です。
 そして、この椿井文書を本物の史料であることを前提として郷土史が語られている事例があり、そこを無下にすることの難しさも当然でてきます。心のよりどころ、観光資源、そういったものの根拠の一つがもろくも崩れ去る、そんな危機に直面した際に、「事実」の指摘だけで人の心が納得するのは非常に困難であるなと、拝読して私も同様に思いました。
 こういったことは人文学や社会学特有であり、自然科学にはない難しさであるなと思います。
 当事者でもこの分野の研究者でもない私としては、単純に傍観者として全容を知りたくなった興味深い話題ではあるのですが、おそらくこういった現象のあり様は、日本の歴史の終了時点に至ってさえも、ある種の不明瞭さが残ったままであろう話題なのではないかと思う次第です。

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