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先生と豚④

   豚のキーホルダーが目の端でゆらゆら揺れた。
 つぶらな瞳で見つめてくるピンクの顔を紅林は睨み返す。柿崎が用意した目印で電柱にぶら下がっていると誰かの忘れ物のようにも見えた。
 深夜とはいえ、道路沿いに点在する街灯やコンビニの明かりで辺りはわりと明るい。それでも暗いことに変わりはなかったが、紅林は山中の、自分の手足さえ確認できないほどの闇を知っていたから電柱の影にひとり隠れていても心細くはなかった。
 柿崎は輪島を使って万引きをさせると言っていた。いったいそれが銀行強盗をする上でなんの役に立つのか紅林には分からない。ただ、自分には銀行から大金を運び出す方法を考えるほど脳は発達していないから柿崎に任せるしかないと考えていた。
 今夜は菊本が万引きをちゃんとこなせるかどうかの実験だった。もっとも本人はそんなことは知らないから戦々恐々としていることだろう。
手順としては柿崎が手紙で日時の指定をして菊本に万引きをさせるように指示し、あくまで輪島がやらせていることにしほしい旨を書き、輪島の下駄箱に入れる。いかにも怪しい手紙の指示を輪島が素直にしてくれるとも思えず、柿崎はひとつ手を打った。
 手紙の文末に指示通りにしたことを確認したら金一封を渡す、と記したのだ。輪島としてはそれで金がもらえれば良し、もらえなくとも痛くもかゆくもない上、菊本がどうなろうと関係ないと考えるだろうと柿崎は言った。
 ――まぁ、まずはやってみるしかないね。
 そう言って柿崎は指定した日時に菊本が来るかどうかを見守る役を紅林に命じた。
(自分で動く気はないんだな……ま、分かってたけど)
 腕時計を見る。深夜二時を回ったところだった。
 紅林は軽く舌打ちした。
「なにやってんだよ……」
 反対車線沿い数十メートル先にあるコンビニを電柱と壁のすき間から覗く。菊本がコンビニに入ったのを十分前に確認したが、いまだ出てくる気配がない。
 紅林は待つのが嫌いだった。待つ間に流れる時間はなぜか遅く感じられ、その流れとは裏腹に気持ちは俄かにはやる。その感覚は体の中でじわじわと何か悪いものが生産されているようだった。待つたびに負のものが少しずつ体内に蓄積されていき、知らないうちに容量を超えて何かしらの変化が起るのではないかと紅林は思う。何か悪いものが自分に何かよくない変化をもたらしかねない。そう考えると待つという行為が余計に憎々しいものに感じられた。
 また時計に目をやる。
 まだ菊本は出てこない。
 いまにも駆け出したい衝動をなんとか抑えて紅林は壁に寄り添うように体を押しつける。この苛々が負のものを作り出していると考えるとのろまの菊本に腹が立った。また腹が立つことで負のものが生産される。
 悪循環だ、と紅林は思う。
 もう少しで十五分が経つ。
「早くしろよ。顔覚えられるぞ……」
 押し殺した声で悪態をつく。本当なら怒鳴り散らしてやりたいくらいだ。もともと紅林は自分が気の長いほうではないと自覚してはいたが、今夜はそれに輪をかけて短気になっていると頭のすみで感じた。
それも仕方ない、と彼の冷静な部分が思う。
 ようやくコンビニの自動ドアが開き、菊本が出てきた。
 紅林は思わずほっと息をつく。
 ――まずは成功だ。
 菊本はゆっくりとした足取りで歩道を歩き、紅林の隠れる電柱に近づいてくる。野球帽をかぶり、上下をランニングウェアで包んで両手を上着のポケットにつっこんでいる。
 数歩歩いたか歩かないかというところで菊本の歩調が早まった。紅林はそれを確認すると一度、ちらとコンビニを見る。
店員は追ってこない。
(……よし)
 紅林は帽子を被りなおして電柱から姿を現し、足早に菊本とは逆の方向へと去って行った。

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