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稲の声=足を切った

田んぼを始めて三年目の田んぼで、はじめて足の裏を切った。
田んぼの中じゃなくて、田んぼの中とかくと勝手に脳?僕?が田中と略してしまうけど田中じゃなくて田んぼの中、いや田んぼの中じゃなくて田んぼの外の畔でだと思う。多分刈った草の切り口が硬くて固まって、それを踏み抜きはしなかったけど踏んづけて切った、なんとなく「イタッ」となった瞬間を覚えてるから。「風の草刈り」という草の柔らかいところで風が吹いただけでぽきりと折れる支点のところで切れるように切れない鋸鎌を振り回すようにして、らく〜に刈っていく方法をやらずに低いところで無理やり刈ったからだ、とそのとき思考がよぎったという記憶がセットになってるから多分、そう。

でももしかしたら、原因は田んぼの中にあった。根拠はないが、確信はある。占いみたいな、自然のルールみたいな
「そうだから、そう」
ってやつ。

なるべく自然な状態での稲の成長を観察したいので、時間ごと日毎で水が入ったり抜かれたりという自然環境が思い当たらないので田んぼには水が入りっぱなし。取水口に草や砂が詰まると入ってくる量は自然と少なくなったり、のけるとまた入ったりする。薬とか肥料はあげてない、これから先には水を調節したり土に何か炭とか糠とか加えるかもしれないけれど、まずは最低限のところを見たいから何もしない。雑草も取らずにやってみたりして、三年目は田植えの直前に浅代掻きをした。稲の根っこが泥の中に敷きわたり、他の草が生えにくくなってしまうのがいちばん良いかなと思ってる。
でも稲ばっかりが自然では、じゃあ自分はどうなの?というのがあって、田んぼを始めてからこの方、というかもうこの数年は畑とか梅取りとかでも手袋をしなくなったし、ずっと裸足でいる。イガグリだけは無理。あれは裸足じゃダメだ、でも猿は大丈夫みたい。栗を取りに来る猿を見たい、彼らがどうやって歩いてるのか、どうやってたくさん落ちてるイガグリを避けて栗畑に入って来るんだろう?

素手や裸足でなんかいたら怪我しない?
とすぐ心配になるみたいだけど、これはやってみて初めて分かったけど、怪我したりするのは手袋や靴を身につけてる状態と同じ動きをするからだ。
裸足になったら、その辺の草原でも無闇に走ったり、どこでも無遠慮に踏み込んでいくことなんてしない、できない。それに素手や裸足になると、手のひらや足の裏で受け取るものは包んでいるときより膨大だ。
頭で自然を大切にとか謙虚な気持ちで、とか言葉にしなくても素手や裸足になると勝手にあっちの方が上位になる。動きとして、関わり方として、図らずとも謙虚にならざるを得ない。姿勢に自然と自然への尊敬、畏敬が現れる。それがいい。

そういうわけで素手と裸足で、鍬と鎌と水と手ぬぐいだけ持っていつも田んぼに向かう。虫に食われたり小さな擦り傷はいっぱいあったし今も行けばどこかしら、でも何かを踏んだりして、このままだと傷口から泥とか入り込んで心配だなーというくらいの深さで足裏を切ったりすることは一度もなかった。左手の小指を骨が見えるくらいの深さで、薄皮一枚4mm残して切り落としたことがあったけど、それは自分で鎌で切ったものだった。

田んぼに水を入れて、

ここまで書いて止めてたまま3日経っていた。
足裏を切ったのは、稲がそうした。

ここまで書いたものは、今回書きたかったことじゃないのに、いつも止まらなくて書いちゃう。すると最初に残そうと思ってたことを忘れちゃう。からもう書いとく。

足裏を切ったのは、稲がそうした。
去年冬期湛水を止めて、だけど取水口をただ石で塞いだだけだったのと、もともと沼田で乾き切らないこともあってずっとうっすら水溜りみたいに泥の中にあったからよかったのか、はたまた稲が多年草化してくれたのか、
田植え前に水を張ったところで、水面から飛び出ている草を刈ることにしてガシガシ刈ってたら、半分弱のところにきたところで稲っぽい草が目に入った。どうみても稲っぽい。田んぼの師匠と先輩に聞いてみたけど二人とも「稲だ」という。それからはかなり細かく見ながら、稲らしき草をより分けて刈るという随分手間のかかるやり方になってしまったけど、
勝手に伸びてきてくれることはなんとありがたい!!ことだった、
稲が群生してるあたりに来ると、さらに刈るのは面倒だ。けれど妄想は、空想はもう数年後まで飛んでいる。もしかしたら田植えなんてしない稲作の方法を得られるかもしれない、そうでなくても根っこも深くすでに分けつも複数に分かれてるから収穫は増すだろう。なんにもしないおかげで溢れだねや去年の稲がまた育ってくる!

また目に入る。
稲っぽい草の中に、葉っぱが膨らんで割れていた。割れたところには細かいつぶつぶが集まって麦みたいな形で、ほんのり紫がかっている。

ヒエじゃん

萎えた。今までの面倒は何だったのか、稲作してる人たちからはヒエの面倒臭さはいやほど聞いてた、去年まではなぜか全くヒエに悩まされることはなかった、なのに自分からすすんで面倒な方法を選んでヒエを残してたなんて。
手を止めて、何度も残しておいた草を見てみる。節のところにあるはずの毛が、あるようにも見えるしないようにも見えるし、ないのは擦り切れたりなんかして取れてしまったようにも見える。他のよりずいぶん大きくなって、まだこの時期で、分けつもずいぶんしてるものは姿が横に大きく広く、草の筋が白っぽいし、すでに穂が付いているものもあってヒエだとわかるが、それは抜いた、他のはどうなんだ?
そんなことをしてるときに、足を切った。
その日はもう家に帰って、一日経って、やる気は失せてるけどそれでも田んぼに行って、残ってる草刈りを済ませてしまおう、そうしないと田植えもできんし、
と思って名残惜しく見てみるとやっぱりこれイネにしか見えん。
それでもう勿体無いこともなし、とイネと見誤って残しておいた草たちの中から一本抜いてみた。師匠と先輩にもう一度見てもらうために写真に撮るために根っこについた泥を洗った、根元には種籾がくっついていた。こぼれ種が絡まってるだけかと思って慎重に外そうとしたら、そこから伸びているのだった。

足の裏を切ったのは、稲が

あれこれ迷う前に、もっとちゃんと見なさいよ

という声だった。
植物だって、人間と話すことができる。人間と人間が普段するのとは違った形だから、わかりにくいけれど。人間同士でも同じような話し方をしている時がある。今日はもう、終わりにするけどこの文章だって、実はそういう書き方をしている。
書いてある内容とは別の、別じゃないけど違う層というか、文字にはなってないことが読み手に伝わっている。妄想とかではなくて。

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