見出し画像

結局、いいねはなくても

昨日、書きたいことがないけど書きたい気持ちだけはあって、
どんなものが書きたいかと探したとき最初に浮かんだのは、いいねが欲しいな、だった。それはnoteで、noteじゃなくてもSNSで書くことを前提にしているからだ、ということに今気づいた。紙に書くならいいねは誰かに見せなければもらえない。そのとき、じゃあ誰に見せる?見ず知らずの人にいきなり

これ、読んで。よかったら「いいね!」って言ってもらえます?

なんてお願いできるだろうか。ていうか、するだろうか。

は?

あ、いや文章書いたので、えと、どうかなと思って。読んで、いいかどうか、いい悪いじゃなくても勿論

え、わたし?え、あの

あ、大袈裟にじゃなくて、ただ読んで率直にというか気軽に、
あ感想とかじゃなくても、大変だと思うのでただ率直に良かったな悪かったな、みたいに一言だけでいいので

え?

いきなり知らない奴に声をかけられて文章を読めと言う、それが小説なのか日記なのか広告もわからない、変な勧誘?やばいんですけど。
いやふつうに、普通に考えていきなり自分の文読めって言ってくる奴、やばくない?

そんな状態で、なんの忖度もなく素直に自分の思った通りのことを言えるだろうか。それで得たいいねかよくないね、はどれだけ信頼できるか。
声をかける方も、この場合僕だが、僕は自分を鑑みて誰彼構わず声をかけるだろうか。SNSでは反応をくれる人がどこにいてそれを読むのか、男か女か、老人か子供か、何もわからない。街角、駅、スーパーのトイレ、図書館、食堂の隣の席の相手でもできるだろうか。SNSでいいねをもらう、を実際の対面で実現するなら、そこまで再現しないと
と今こう打ちながら発見したので、この段落を打つまで僕はそこまで想定していなかった。

その状況で、いいねを貰って、果たして嬉しいか。
図書館のカウンター、いや図書館のカウンターで携帯をいじる人はいないか、本屋のレジの女の子が(僕はノンケの男だからだ。そうなのだそもそも、このnoteでも相手は僕がどのような人間かなど、外見は特に、知らないまま読まされるので、それを推察しながらきっと文を読むだろう。というか文から推察するだろう。それをどう実現したらよいだろう、

いや別に実際にする気などないのでこのことについてはそれ以上考えても仕方ない)

とってもいい

と言ってくれたら、相当嬉しいんじゃないかと思うな。トイレで、隣の便器でおしっこしてる男に読ませて

なかなかいいな

と言ってもらえたら。男がどんな人か知らなくても、これもけっこう嬉しい気がする。結構、知らない人にいいね、と言われたら嬉しいな。
やっぱり、やってみるもんだ。声かけるまでは「気持ち悪い。」とか言われて読まれもしないで「やっぱりこんなことするんじゃなかった」と思う自分を妄想していたが、やって良かった。人から褒められる、というのはとてもいい。勿論いまのこれも妄想だ。
さて、では

ぜんぜん よさがわかりません

なにこれ?

わるい

と言われたらどうか。これは僕の場合だ。さっきの褒められた時の反応も僕の場合。

駄目か。・・・いやしかし、・・・本当に駄目なのか?あの人、良さがわからないだけの人じゃ。でも、どうなのだろう。これは本当は良いのか悪いのか。

結局、他の誰がどう思うかより先に、自分が自分が作ったそれ、に対して面白いと思うかどうかの方が先決だ。そうでないと、みんながいいと言ってくれればいいが(悪い、でないところが重要だ)、意見が割れたら、多数決で決めても何の意味もない、わかってる人とわかってない人がどれだけの比率でどっちにいるのか。今度はそれを判断するための評価が必要になり、その判断基準が果たして本当に適正なものなのか、誰に聞いたらわかる?その誰、は本当にそんなに信頼に足る人物なのか、他の無数の文章においては確かに絶大な信頼が置けるが、ことこの文においてのみ、誰は間違いを犯しているのやもしれん、
と僕はまた大変なことに気づいてしまったのだが、

「他人の評価に振り回されてはいけない」
というけれど、そもそも
「他人の評価は振り回される」
ものなんじゃないか。
他人の評価は振り回されるものなのだから、抵抗したって無駄なので、そういうもんだとしとけばいいのである。
それより自分自身だ。
というのは当たり前なのでひとまず置いておく、
回すのは誰がいいか。誰に回されるならいいか。

僕は珈琲の焙煎をしている、何につけても人に教わるのが苦手なので焙煎を教わったことがない。近所の自家焙煎珈琲店から雑誌や本でここの珈琲を飲んでみたいと思う珈琲、たまたま飲んだ珈琲、こんな味にしたいは外にも内にもある、いまは内だけになった、外で飲んだ珈琲が今はもう美味しくないというわけじゃない、自分で焙煎するならこんな味にしたい、だ。
僕が焙煎したコーヒーを、誰が美味しいと言ってくれたら嬉しいか。と考えたことがある。店を始めると、本当にたくさんの人が僕が焙煎した珈琲を飲む、そして少なからぬ人が美味しい、と言ってくれる。それは嬉しいかと言ったら、素直に嬉しい。しかしそれが自信につながるかというとそれはまた別の話で、
今となっては自信も別に関係なかったこともわかったけれど、そのときはまだ
この人が美味しいと言ってくれたら、僕はきっと自分の珈琲は美味しいんだと信じられる、という人が幾人か、いた。焙煎し、抽出し、飲みながら(僕は試飲はしない、試飲と普通に飲むのと違えてなにがわかるのか)その人たちの反応を空想していた。

あるとき、店のカウンターで初めてのお客さんに珈琲を淹れながら、

この人が、僕が思い描く「この人が美味しいと言ったら美味しいと信じられる」人でないとなぜ言える?

と思った。
そのお客さんは若い女の子で、まだコーヒーはそれほど飲んでいるわけではない。というかコーヒーよりもみせがすきっていうか、でもそうやってみせをまわっていたらコーヒーじたいがおいしくなってきてて、
その子が将来、僕が「こんな人に美味しいと思ってもらえたら、その言葉は信じてしまう」人間になるかもしれない。
あるいはいま、目の前に座ってる一見さんのおばさんこそが、その人物かもしれない。奥のテーブルで新聞を読んでるヨレヨレのおじいさんがまさか、僕はまだ知らないがある老舗の名店である自家焙煎珈琲の店主かもしれない。

僕は「こんな人」が誰なのか、実のところわかっていない。
後になってそうであったこと、先になってそうなるかもしれないことを知り、「あのとき、もっと真剣に珈琲を淹れておけば良かった。なぜ俺は全身全霊で向かわなかったのか」と悔やんだところで後の祭りだ。
ということに思い至ると、常に全身全霊で、美味しく美味しくばかりではない、身と霊が怠けるのなら僕も怠けるのが全身全霊、そうする以外にやることはないことになってしまった。
文章だって同じことで、今はとにかく指を止めずに頭で考えずに書く書く、打つをやる。体裁とかは後の話、

そういうことだ。
いいね、が欲しいというのはSNSでは道筋を簡略化され、私の労力は極端に軽減された。それはおそらくあげる方にも言えることで、簡略化によって一つのいいね、がもつ私にとっての重みは間違いなく軽くなった。重い軽いで言うからややこしいが、

いいねが欲しいとか承認欲求とか、同じ山に登るにも高い山に登るのと低い山に登るのでは違うようにいいねも違うのではないでしょうか。僕は山登りが別に好きじゃないから「もらう」ことの例として挙げたが、山登りが好きな人は好きだから登ってるから、いいねや承認欲求と呼ばれるものは必要としていないかもしれない、いやもしかしたら登る行為がそれらを満たしている可能性がある。
と言うか、この文章だってそうだ。僕はいま山を登っているのだ、好きで打っているのだ。この3174字だけで三つも大きな発見があった、



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?