本を「読む/読まない」読書会

日曜日、
読書会をやりました。「本を読まない読書会」として始めたそれは、
けれどこのタイトルは会の内容を正しく表してなくて読む、というとき通常するとされている読む、はしないからその意味では「読まない読書会」は間違っていない。けれど僕はこの読書会でやることも、
も、というかこの読書会で重きを置いてることの方が「読む」だと思って始めた、今はどちらがではなくどちらもとしているけれど、

日曜日の読書会では本を持ち、言葉を目で見て、声を出して朗読しました。
はたから見たら、外見的には、読むとはこういうことだと見做されていることとまるで同じことだけれど、書かれた内容をまるで重要視しない点で、何が書かれているか理解・解釈しようと一切しない点で、それは通常の「読む」にならない。こんな読み方をしてもテストの点は一向に上がらない。けれど、

本を持つ。すると身体の中で色々なことが起こる。重心が移動したり、気持ちが向かう方向が変化したり、色を観たり、形を観たり、本を持つことで感覚が生じる。

文字を見ると、たとえその文字の意味を知らなくても(というか僕はこの「意味」という言葉の意味を変えた?文字通りにした?ことをやってるのだが)、それが文字だと認識できなくても、作用は起こる。身体がまとまったりばらけたりする。(これは『ムラブリ』という本を書いた言語学者の伊藤雄馬さんという人がnoteに書いた実験で、詳しいことは伊藤さんのnoteをぜひ読んでみてください。他にも驚くような言葉の実験もあったり、どれもとても刺激的で面白いので、どこにこの実験が書いてあるか探しがてら色々読んでみてください。)

声に出して読むと、文章が立体的になる。文が持っている詰まりとかズレ、通りやすいとか入ってきやすいとか、場面を頭で書いているか観えているものを描いているかとか、読んでみると、また読まれたのを聞くと気づきやすい。響きが直接身体に伝わることでの違いだと思うので、慣れれば黙読でもそれは可能かもしれない、僕はまだできない。この文も、声に出して読んでみる。

読むとはこういうことだと上書きされてしまったことを、もう一度ぽいっと取っ払って、「読む」をしたい。そこに書かれた文字を理解することでなく、触れて、見て、声にしたそのときに起こること=「意」に注目して、解釈したり判断したりしないように注意してとにかく浸る、つまり「味わう」。

意を・味わう = 意味

この日読んだ本は二冊、
坂口恭平『けものになること』と長野まゆみの本、名前がなんだったか思い出せない。坂口恭平の本は家からさっと持ってきたもの。長野まゆみの本はひなみ文庫の棚から、体観がなるべく離れたものをと思って、タイトルも中身も知らずに手に取ったもの。今回たった一人の参加者だったマキちゃんと交互に本を持って、その体感の変化がどんなふうか話しました。坂口恭平の本は、

マ:右肩が痛くなって、なんかざわざわ?ゾワゾワする。映像が観えて、黒とか赤(だったか、正確なところを忘れてしまった)の色から、「細かいパズルみたいにいろんな破片がパチパチと」と言って空中で両手でピースを嵌め込んでいく動作。
僕:持ってると段々と身体が縮こまっていって、その場でじっと小さくなっていく。脳みその表面ではなく内側の方に勝手に気持ちが向かう。

次に長野まゆみの本を持つと、

マ:坂口の本の後だと、すごく軽くなった。緑がかった薄い、青い感じ?前腕がピリピリっとしてきた
僕:体の存在感が薄まってきて、手首から先に集まる感じ。頭の前、左側に向かう。

ぱっと開いたページを音読すると、長野まゆみの本は読みながら、どうも途中でつっかえるというか、詰まる箇所が点在していました。坂口恭平の本はスルスルと言葉が連なる。マキちゃんに読んでもらって聞いた感触も同様。
本を手にした時に気持ちが向かう脳の部位と朗読したときの声の出方で観ると、長野まゆみの本の朗読したページは、場面を頭で考えて構築しながら並べていく方法で、坂口恭平の方は内側に湧いてきたイメージや言葉を頭を介さずにそのまま(なるべく、というかほとんど手を加えることもしてないっぽくて)垂れ流しにするやり方、といった感じがした。しかし、同時に長野まゆみの本は身体(心?)が軽くなるので手に取りやすく読むのに身体的負担がそれほどかからないけれど、坂口恭平の本は重くてともすると苦しくなりやすい、それが的を射ているかどうかは作者の人にでも聞かないとわからないけれど、僕とマキちゃんで方向性というか顕れた変化は似ていた。そして、明らかに二冊の本は内容以前に持つことで僕たちの状態に変化をもたらしていたのです。

余談。
ここでふと思いついて、僕がマキちゃんの左腕を両手でぶら下がるように引っ張って、それに耐えてもらったのだけど、そのときただ耐えるよりも
「あいうえお」
と声を発すると、力が抜けるように耐えるのが大変になってしまう。ところが
「あおうえい」
と発する順番を変えると、楽に耐えられてしまった。
自分で声を発しながら、その声がどの辺りに響くのか体観してみると「あ」が体側に、そこから順に内側に向かっていくのがわかった。「あ〜お〜」「う〜え〜。え〜う〜」「お〜い〜」と試すと「あおうえい」は内側に向かう順番がきれいに揃っているのだけど、「あいうえお」だとそれがバラけてしまっているのです。
これはとても大きな発見でした。言葉は内容がどうこうの他に、文字の並びが大きく作用している。というか、現代では何が書かれているかだけが注目されてしまっているけれど、それは文の一側面というか、文字の並びや響きは内容よりももっと直截的に「意味」を読み手に伝えている、なぜなら身体は嘘をつけないからです。

本を読むとき(多分本に限らず例えば人の心を読むとかも)、本を主にして言葉が何を言っているか理解しようとするのではなく、体の状態の変化を味わうことは、相手も自分も固定してしまうのではなく、むしろ相手と自分の間に起こる現象に着目することで、現象、それはまさしく宮沢賢治が書いた

わたくしという現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です

現象は常に変化するので。
そして、そうやって読むためには、「何が書かれているのだろう?何を言おうとしているのだろう?」と対象から離れてしまって勝手に思考するのではできなくて、とにかくまずはそこに書かれた/そこで話された言葉を100%受け取ることで初めて可能になる。行間を読む、とか書かれていないことを想像する、といって頭を使うことではなくって、身体を使うこと、身体に起こる現象に向かうことが「読む」ことだ、というのがこの読書会をやることで、僕のなかではっきりとしてきたことです。









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