世界と繋がる芸術論 7+8
世界と繋がる芸術論 7
ある作品なり時間が芸術になるために必須の要素である想像力とは、自分のなかで閉じたまま完結する妄想や空想ではなく、外の世界=現在だけにとどまらない過去や、もしかしたら未来の人間、動物、さらに植物など生物全般、はては石や土といった無機物まで、文字通りこの世界を構成するあらゆるもの=と繋がるために駆使される能力のことだ。
ただ世界と繋がるといっても、人間同士ならまぁ当然、動物とでもペットや家畜と暮らす人の中には実際にそういう経験を持つ人もいるだろうし、そうでない人にも割とすんなり受け入れてもらえると思うけれど、こと植物や石も想像力の射程に入ると言おうとすると途端に語ることが難しくなってしまう。
植物も人間の想像力が及ぶ存在であるという証例を挙げることはできなくもない。自然栽培で有名な木村秋則さんが松川町に講演に来たときに話してくれたキュウリ農家の御夫婦の話で、収穫のとき規格外を切り落としていく旦那さんと、ご近所さんや身内にと後について拾っていく奥さんにキュウリの前で指を差し出してもらうと、キュウリの蔓が奥さんの指には巻きついたのに旦那さんのほうにはぴくりともしなかったという話(その二年後、旦那さんから「ようやく巻きついてくれました」と電話があったそうだ)。
または、どんなに枯れかけててもその人にかかると花や野菜がこんもり育つMちゃんのお祖母さんの話。もっと単純に、植物の声が聞こえるYちゃん。Yちゃんは僕の身体を観てくれているのだけど、調整の際に僕にそこにいる木や花とやり取りするように指示したこともあった、僕自身に草木の声は聴こえたりしないけれど、実際にそれで僕の身体が変化するのだ(そういえば何年か前にTV番組『探偵ナイトスクープ』で、「声が聞こえるから」と言って公園の緑地でいとも簡単に四つ葉のクローバーを見つけてしまう小学生の女の子が出ていたこともあった)。
『植物は<知性>をもっている』(ステファノ・マンクーゾ+アレッサンドラ・ヴィオラ著)という本の引用でもいい。植物が二〇もの感覚(温度、湿度、磁場、重力……)を使って遠い水源まで根を伸ばすことや、トウモロコシがハムシに襲われるとハムシの天敵である線虫を呼び寄せる化学物質を分泌すること。環境への受動的な適応というにはあまりに複雑で巧妙な、食虫植物の餌の捕獲の仕組み。他にも、種類が異なる多くの植物が、ストレスを感じると同じ化学物質を放って「今日は具合が悪い」というメッセージを伝えること。例を挙げれば枚挙にいとまがない。
にもかかわらず想像力は植物にも及びうると語ることに躊躇するのは、疑う人に、また僕自身に、客観的な根拠を提示することができないからだ。一度でも植物との意思疎通や、相応の反応を得た経験があれば僕は今並べた例を持ち出すまでもなく、人が「そんなの錯覚だ」と言っても、そんな反論に揺らぐことなく自説を展開していけるのに僕にはそれがない。
連載第四回で書いたように、人は体験している当人にも認識できなかったり、体験を言語化する時点で取りこぼしたり無かったことにしたり、ときに真逆の言葉を当てはめてしまうのだから、その違いを感覚できない人の「体験すればわかる」あるいは「体験しなければわからない」という態度は傲慢さの現れである場合のほうが多い、それでも実感することにはある種否定できない強さがあることは間違いない。いや、たとえ体験したとしても世間の常識、周囲の環境がそれを共有できない場合、僕たちは経験ではなく常識、周囲についてしまうことのなんて多いことか。
(後述:このとき無自覚にだけど僕が「体験」と「実感」を分けていることはとても示唆的で面白い。でも実感に頼ることのやばさについて、このときの僕自身がまるでわかっていない。)
ここまで書いたところで先に進めなくなってしまい、何かもっと説得力のある例はないか周囲の人に聞いてみたり本を読み返しているうちに、僕は、自分が植物の行動に主体性が現れている例を探していることに気付いてしまった。
どうやら僕は、植物にも人間のような知性があることがわかれば、想像力が植物にも及ぶと納得してもらえるだろうと思っていたのだ。言い換えれば僕の中に、想像力は知性のあるもの同士しか可能ではないという思い込みがあったということだ。
考えてみると、人形や絵画と会話ができるとか草花の声が聞こえるとか石と人にも相性があるとか、一般にオカルトや神秘主義という枠組みに入れられてしまうものの多くが、この思い込みの壁に阻まれている。
ということは、僕が抵抗すべきだったのは自分に実感があるかどうかより、想像力は知性を持たないものには及ばないという思い込みであり、同時に動物以外のものには知性がないという思い込みのほうなのではないか。「生物ピラミッド」というものがある。知能を持つのは人間だけであり、人間>動物>植物>石という、生き物の間には進化段階や生命能力に階層があるというルネサンス的観念の原型は、今も僕たちの世界への認識に拭い難く浸透してしまっている。
『植物は<知性>をもっている』で著者は、植物が自覚的に選択して行動している例を挙げながら、知性が「生きるために問題を解決する能力」であると定義したうえで次のように言っている。
「知性がなければ生命ではない。この明らかな真実を認めることに、まったくためらう必要はないはずなのだ。たしかに人間の知性は、細菌や単細胞の藻類の知性よりもはるかに優れている。ただその違いも、結局は量のちがいにすぎず、質のちがいではない。」
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