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「有馬記念と雪と聖夜と」(その4)

  レースを終えた騎手の椎名清は、検量室でパトロール映像を見ていた。騎手はレースの前と後に、定められた負担重量を超過していないか、検量室でチェックを受ける。他の騎手も顔を洗って泥を落とすと、モニターの前に集まってきた。

 競馬では、馬場の含水率に応じて、四段階で馬場状態が発表される。「良」から、「稍重」「重」「不良」と、だんだん悪くなる。午前中に比べれば馬場状態は回復してきたものの、発表はまだ「重」のままだった。レース後、騎手も泥だらけだった。

 モニターを見ながらタオルで顔を拭う椎名に、係員が声をかけた。

「高千穂先生(カリカチュアライズを管理する調教師)から呼ばれて、『いけるか?』って。いくしかないんですけど、何ともいえん気分でしたね」

 ようやく来たかという思いと、何を今更という思いが交錯していた。

 第九レース、最後の直線でサンマルタン騎手が落馬し、救急車で搬送された。サンマルタン騎手は第十一レースの有馬記念でカリカチュアライズに騎乗予定だったため、急遽乗り替わり騎手を探すこととなった。オーナーと相談した調教師の高千穂は、すぐに椎名を指名した。

 カリカチュアライズはデビューこそ遅かったものの、新馬戦から連勝する。その勝った二レースとも、椎名が手綱を取っていた。乗りながらモノが違うと感じていた椎名は、カリカチュアライズならダービーを狙えると確信していた。

「(カリカチュアライズは)積んでるエンジンがちゃうんですよ。このままトライアル勝って、ダービーもええ勝負するやろうと」

 真っ黒なカットソーにベージュのストール、黒ずんだ色落ちのヴィンテージのデニム。スパイラルパーマの施されたロングヘアには、ホワイトメッシュが入っている。

 「オシャレ番長」と呼ばれ、端正な容姿にも関わらず毒舌家、斜に構えたその騎手らしからぬ異質なキャラクターは健在だった。

 「青葉賞(東京競馬場二四〇〇メートルで行われる三歳の重賞レース)」は、二着までに入れば東京優駿(日本ダービー)の優先出走権が得られるトライアルレースである。その青葉賞に向けて、順調に調整を続けるカリカチュアライズだったが、突然、サンマルタン騎手に乗り替わることが発表される。椎名は何も聞かされていなかった。

 前年、サンマルタン騎手は、最多勝利騎手、最高勝率騎手、最多賞金獲得騎手の全ての部門を受賞した際に与えられる、騎手としての最高栄誉である騎手大賞を受賞していた。椎名はリーディング九位だった。

 リーディングトップではないからダメなのか。

 九位だからダメなのか。

 ……オレではダメなのか。

 調教師の高千穂はただ一言、「こらえてくれ」と椎名にアタマを下げた。

マスコミは椎名には触れず、「ダービーに向け新コンビ誕生!」とだけ煽った。

 どういう経緯でそうなったのか、本当のところはわからない。

 しかし、結局、椎名はカリカチュアライズから降ろされた。

 

 大手電機メーカーのサラリーマンの長男として、椎名は兵庫県宝塚市に生まれた。幼い頃から利発で、運動神経も抜群で、何をやっても一番だった。だからといって驕ることもなく、正義感の強い、しかし優しい男の子だった。

 自分たちに学がなく、中流止まりだったせいか、高級志向で優雅な世界に憧れを抱いていた両親は、子供の教育に熱心だった。幼少期にも関わらず、椎名は複数の習い事を掛け持ちしており、その中の一つに乗馬があった。

「これは五歳くらいですかね、小学校入る前やと思いますわ」

 大人と一緒に楽しそうに馬の手綱を引く、その写真に写るおかっぱアタマの椎名の顔は、弾けるような笑みを浮かべていた。

 すぐに要領をつかみ上達も早かったが、それよりも馬と心を通わせる術を心得ていたことに、インストラクターは感心しきりであった。家の近くに阪神競馬場があったため、幼い頃から友達と近くのマンションの屋上で、美しいサラブレッドの姿をよく眺めていた。馬を見る機会に恵まれていたせいか、馬に親近感を覚え、彼らと触れ合える時間は純粋に楽しく、大好きだったという。

 なんでもできて、性格も良くて、容姿端麗。神童の誉れ高く、非の打ち所のない少年だったが、だからこそ、面白くないと感じる同級生や、かわいげがないと感じる大人も少なからずいて、理不尽な言いがかりをつけられることも、ないわけではなかった。

 自分は普通にしているだけなのに、なぜそんな目にあうのか。感受性の強い椎名は、子供ながらに世の中の不条理を感じ取っていたのかもしれない。

「あまり覚えてないんですけど、まぁ、そんなこともあったんちゃうかな」

 諧謔を弄した物言いが、いかにも彼らしく、却って曖昧にしたい記憶を感じさせる。

 小学校も高学年になると、学業成績優秀な椎名に対し、両親は、より高度な教育をと有名な中高一貫校への中学受験を勧める。ただ両親を喜ぶ顔が見たかったのだろう。深く考えないまま、椎名は流れに身を任せてしまう。

 夏休みに野宿しながら、自転車で琵琶湖を一周してみたい。プログラミングの勉強をして、オリジナルのゲームを作ってみたい。ちょっと気になる女の子と、一緒に映画を観に行きたい。

 もともと好奇心旺盛だった上に、多感な時期を迎えた少年は、様々なことに興味を持ち始めていた。気軽にしてしまった「やってみようかな」という返事によって、多くの大人が「あなたのために」と動いている。もう戻れないと思った。

 受験勉強を頑張れば頑張るほど、小学校生活を無難にこなすだけの力は削られてゆき、学校は休みがちになる。次第に学校での居場所がなくなっていく。それでも少年は、平気だよと健気に振る舞い、両親や周りの人たちの期待に応えようと、歩みを止めなかった。

 擦り減った少年は、少しずつ無気力になり、学校での言動も雑になっていく。常に不機嫌そうに見える彼に、クラスメイトの態度は非寛容で閉鎖的なものとなっていった。孤立していた「持てる者」には、「持たざる者」から、ここぞとばかりに、容赦なく心ない言葉が浴びせられる。他人に弱みを見せることに慣れていなかった。自分の苦しみをうまく表現することができなかった。少年は、自分を取り巻く人々に何を思ったのだろうか。

「ドリンク剤ばっかり飲んでた記憶しかないなぁ。まぁ、成績は落ちる一方で、とにかくいつも疲れてたかな」

 関西有数の中学受験塾では落ちこぼれなのに、学校では住む世界の違う人として腫れ物扱い、家に帰れば、優等生で両親自慢のよくできた息子。ただまわりの誰かを喜ばせようとしていただけなのに。

 これさえ終われば……そればかり考えるようになっていた。

 蚊の針のような、細く尖鋭すぎる針は、痛点を避けるため、刺さっていても痛みを感じないのだという。椎名の心にも、本人すら気づかない、そんな尖った棘のようなものが、無数に突き刺ささっていたのかもしれない。

やがて、椎名の中学受験は終わる。

まわりと同じように、地元の公立中学校に進学することになる。

「友達の母親がね、半笑いで言うんですよ。

『ザマア見ろ』って」

 同級生からは「意外と大したことなかったんやな」、両親からは「期待はずれ」と言われた。

無数の傷口から血が、涙のように溢れ出した。痛みを伴いながら、少年の中で何かが、強く複雑に捻じ曲げられた。

 自分が生きることに精一杯で余裕のない人間の不平不満は、捌け口を求めて弱いものに向かう。いつの時代も誰かの幸せを踏みにじるのは、余裕のない誰かである。

 この時、少年の将来を決定させたものは、一体何であったのだろう。

「なんというか、誰彼もがそう簡単になれんもんになろう思たんですかね。

 そしたら、なんかのプロ(選手)かなぁって。野球やサッカーは母数が多すぎる、ゴルフはお金がかかりすぎる……とか一応考えましたけど、まぁ、真逆の世界に憧れたんですかね」

 健全で品があるエスタブリッシュメントの世界に対する真逆なのか、機会均等で誰でもが頑張れば到達できる世界に対する真逆なのか。あるいは、これまでの、誰かのために生きていた自分に対する真逆なのか。

椎名はここで、将来ジョッキーになることを決意する。いずれにせよ、それが椎名のいう「真逆の世界」だった。

 競馬学校騎手課程の願書受付は通常の高校入試よりも早く、夏前に行われる。椎名は自分で履歴書・身上書など、必要書類を用意し、両親に叩きつけた。

「受験料もかからないし、合否は九月にはわかる。ダメでも普通に高校受験すればいい。だから受けるだけ受けさせてくれ、と。

 誰もしゃべらんシーンとした時間が長いこと続く中、横におったばあちゃんが、またええタイミングで泣くんですわ。

そしたらオヤジが目もあわさんと一言、『受けるだけやぞ』って」

 そういう椎名は笑顔ではあったが、その言葉には虚しさが滲む。彼の少年時代がもっと違う形だったら、今頃どんな騎手になっていただろうか。いや、そもそも、騎手になっていただろうか。

 

 来栖真司騎手の第一印象について、椎名はこう語っている。

「めっちゃニコニコしてるんですけど、赤ら顔で、なんかボンヤリして、フニャぁっとしたヤツやなぁと」

 ここに一枚の写真がある。

 まだあどけなさの残る坊主頭の少年たちが、緊張した面持ちで、ぎこちないガッツポーズをしながらこちらを見ている。紺のブレザーの胸には赤いリボンバラ章がついている。向かって列の一番左にいる、目鼻立ちのはっきりした背の高いのが椎名だ。そして、その右横で、くりっとした目でどこか宙を見ている背の低いのが来栖真司である。二人は競馬学校の同期だ。

 来栖健司(元騎手、元調教師)の長男である来栖真司は、何の疑いもなく、父のいる競馬の世界に足を踏み入れた。美浦のトレセン(茨城県稲敷郡美浦村にある競走馬の管理・調教を行うためのトレーニングセンター)で育ち、日常的に競走馬とともに暮らしてきた来栖には、むしろそれ以外の選択肢は思いつかなかった。

 当時のスポーツ新聞の記事にこんな見出しがついている。

〈来栖健司氏の長男・真司くんJRA競馬学校入学 「目指すは親子二代のダービージョッキー!」〉

 注目を集めるのはいつも来栖。サラリーマン家庭出身の椎名に注目する者は少なかった。

 同期の面々が皆、競馬と何らかの関係を持つ家庭ということが、かえって椎名の自信に繋がっていた。騎手を目指すに至るまでに、きっと自分のほうが過酷な中を生きてきたはずだ。そんな風に感じていたからだろうか、競馬学校でも一番になることを、椎名は信じて疑わなかったという。

この時、来栖は椎名のことをどう見ていたのか。

「なんかもう最初から颯爽としてましたね。ハキハキして、堂々として。普通にカッコいいなぁ、と思ってましたね」

 同じ年代の少年にはない、逞しく自信に満ち溢れたオーラのようなものを、彼は纏っていたのかもしれない。傷だらけである本当の姿を隠すように。

 そんな椎名を来栖は慕った。いや、椎名の言葉通り表現すれば「懐いた」。来栖は椎名のことを「シーナくん」と呼び、椎名は来栖のことを「シンジ」と呼んだ。来栖は子分のように椎名について回る。椎名も悪い気はしなかった。

 競馬学校でも椎名は結局一番だった。

 当時の指導員が、後に雑誌でこう回顧している。

〈技術がどうこうではないんです。なんというか、馬と波長をあわせられるというか。

 どんなクセのある馬でも乗りこなしてしまうようなところが当時からありましたね〉

 派手な外見とは裏腹に、椎名には繊細できめ細やかなところがある。もともとなのか、少年時代の影響なのか、それはわからない。馬との関係においても同様なのだろう。むしろ、人と対する時よりも、馬に対する時の方が、彼自身、気楽なのかも知れない。

 そんな椎名に憧れ、来栖は追いつこうと努力を重ねる。しかし、やればやるほど、努力だけではどうにもならないものを見せつけられることなる。同期にも関わらず、その存在はあまりに眩しすぎた。

「ライバル?

 いやぁ、全然そんな……対抗心とかより、どうすればシーナくんみたいに乗れるんだろうと、そればっかりでしたね」

 普段から笑顔の印象が強い来栖だが、椎名の話をする時には、一段と嬉しそうな顔をする。

 二人は無事、競馬学校を卒業、三月に揃ってデビューを迎える。競馬学校の卒業前に行われた卒業供覧の模擬レースは、見事な勝ちっぷりで椎名が勝利している。喜びを爆発させるでもなく、淡々と鞍を下ろす椎名の姿に、関係者の間では早くから注目が集まっていた。それでも世間的にはやはり、「元ダービージョッキー来栖健司の息子」に関心が集まる。椎名はデビューの翌週には初勝利をあげていたが、来栖は初勝利に半年近くかかった。椎名は初年度に五七勝で最多勝利新人騎手の賞を受賞しているが、来栖は二一勝だった。翌年も椎名との間には四五勝もの差あった。偉大な父の影に苦しんだ。来栖にとって辛い時期が続いた。

 関東所属ジョッキーの来栖と、関西所属ジョッキーの椎名。時折、メールのやり取りをするだけの間柄になっていた。競馬の話を一切しないメールに、来栖は、椎名らしい思いやりを感じていたという。

 三年目、椎名が一〇二勝で初めて年間一〇〇勝超え、桜花賞で初G1制覇を達成した年、来栖は九三勝で、その差は九勝まで縮まった。苦笑まじりに来栖は語る。

「いや、シーナくんとの差がどうのこうのより、『来栖騎手』と呼んでもらえるようになったのがうれしかったです」

 来栖は関係者から「来栖さんとこの息子さん」と呼ばれていた。それは、来栖の初々しさや愛くるしいルックスに対して、親しみを込めて呼ばれていたものだったが、本人としては「来栖健司の息子」ではなく、「来栖真司」として認識される日を待ち望んでいたのだろう。来栖は少しずつ、着実に勝鞍を重ねていった。

 一方、椎名は安定してリーディングトップテンに入る実力派騎手に成長、その容姿とも相まって、人気を不動のものとしていたが、

歯に衣着せぬ発言でしばしばトラブルを起こすようになっていた。それは若くして功を成した者への嫉妬や僻みを含んだ、的はずれな批判に対する、彼なりの断固たる抵抗でもあった。

 圧倒的でなければ存在が許されない特別な世界を目指すことで、気をそらすことはできても、心に突き刺さったままの棘自体が消えることはない。忘れかけていた棘が暴れ、耐え難い痛みを、独り椎名は感じていたのかもしれない。

 競馬学校時代の親分と子分。その関係性も変わろうとしていた。

 プライベートでは結婚をし、「さすが来栖健司の息子」という評価すら自信に変え、勝鞍を積み上げていく順風満帆な来栖。言動が少しずつ不安定になり、成績も人気も落としていった椎名。勝利数、勝率、獲得賞金、リーディング順位、全てで来栖に差をつけられていく。

 最多勝利新人騎手にもなった椎名に能力のあることは、疑いようのないことである。問題はそこではなく、別のところにあるということを、この時の椎名は理解できなかった。あるいはわかった上で、認めることができなかったのかもしれない。それは、「奢り」ではなく、人生の歩みの中でできてしまった、椎名と外界との間の深い溝のようなものだったのではないだろうか。

 こんな底の見えない深い溝、どうやって埋めろというのか。椎名の苛立ちは、次第に来栖へと向けられていった。言い淀んだ口調で、椎名は振り返る。

「ちょっと、競馬学校時代からの関係というか、そういうのもどこかにあって……

 向こうがどう思てたんかしらんけど、気ぃ悪い話、あの頃は、自分の方が上……みたいな、そういういうのは確かにありました」

 世間の評価を覆せる方法はないか。椎名が至った結論は、来栖より先にダービージョッキーになることだった。

 第二次世界大戦時の英国首相、ウィンストン・チャーチルは言った。

〈ダービー馬のオーナーになることは、一国の宰相になることより難しい〉

 毎年生まれる七〇〇〇頭以上のサラブレッドの中から、ダービー馬になることができるのは、一頭だけである。つまり毎年、そのオーナーも一人、その管理調教師も一人、そして、レースを一緒に走り、馬とともに勝利を分かち合うことができるその騎手も一人だけだ。だからこそ、ダービーに勝つことはホースマンの夢なのだ。

 

 カリカチュアライズから降ろされることになった時、椎名は絶望した。その年、インビンシブルに騎乗した来栖が、「皐月賞(中山競馬場二〇〇〇メートルで行われる三歳のG1レース)」初勝利を達成していたからだ。

 中央競馬では、皐月賞・東京優駿(日本ダービー)・菊花賞の三大レースが、一般的に「クラシック三冠レース」と呼ばれる。これらのレースは三歳馬しか出走できないため、どの馬もチャンスは一生に一度しかない。これら三つのレース全てに勝った馬は「三冠馬」と呼ばれ、史上数頭しかいない。もちろん、三冠ジョッキーも史上数人しかいない。つまり、ダービージョッキーになることよりもはるかに難しいということだ。

 皐月賞に勝った、すなわち一冠目を達成した来栖は、そのままインビンシブルでダービー初勝利どころか三冠を達成する可能性があった。失笑気味に言う椎名の表情は硬い。

「だから、サンマルタン騎乗でカリカチュアライズがダービー勝った時、正直、悔しさよりも、シンジが自分より先にダービージョッキーにならんかったことにホッっとしてしまったんです……

 ホンマ、オレ……クソでしょ?」

粘着質な汚れた油のように、ベットリと纏わりつく、これまで最も忌み嫌ってきたはずの感情。それに気づいた時、自己嫌悪というような内省的なものではなく、結局そういう感情に支配されてしまった「椎名清」に対する、幻滅や落胆があったに違いない。いずれにせよ、有力馬から降ろされた椎名は、遠くからただ見ているしかなかった。

 

 カリカチュアライズはサンマルタン騎手とのコンビで「菊花賞(京都競馬場三〇〇〇メートルで行われる三歳のG1レース)」も勝利し、二冠馬となった。次の目標をジャパンカップに定めて調整を続けていたが、疲労の回復が思わしくなく、回避して有馬記念へ直行することとなった。

 来栖のお手馬(いつも同じ騎手が騎乗し、性格や癖を熟知している馬のこと)には、インビンシブルだけでなく、古馬のトリノサクラもいた。その年、すでに「大阪杯(阪神競馬場二〇〇〇メートルで行われるG1レース)」、「宝塚記念(阪神競馬場二二〇〇メートルで行われるG1レース)」、そしてジャパンカップとG1を三勝、天皇賞(秋)でコントドフェに敗れたものの、トリノサクラは古馬最強と目されていた。

 有馬記念の騎乗馬として、来栖はトリノサクラを選ぶ。椎名が当時を振り返る。

「シンジが勝つんやろなと思てました。確かに(土屋)優子のコントドフェも強いですが、二四〇〇(メートル)では、トリノサクラの方が上やろなと。

 自分が乗ってたからいうわけでもないんですが、むしろ、サンマルタンのカリカチュアライズがどこまでやれるか。三歳ですが、あるいは、というのはありましたね」

 世間の評価もその通りだった。

 途中、何度か入れ替わったものの、最終的には、一番人気トリノサクラ、二番人気カリカチュアライズ、三番人気コントドフェに落ち着くことになる。

 三強対決の一角、しかも一番人気のトリノサクラにまたがる来栖は、プレッシャーを感じていたことだろう。有馬記念の騎乗経験は三度目だったが、今回は一番人気で、周囲の期待が今までとまるで違う。トリノサクラ陣営は、騎手の来栖は、どんな作戦を考えているのか。世間は注目していた。

 しかし当の来栖は、それとは全く違うところで苦悶していた。

 

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