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「有馬記念と雪と聖夜と」(その2)

  エノキは北海道を除く日本全国に自生し、大きな緑陰を作る巨木として親しまれている。分類法によってアサ科だったりニレ科だったりするが、エノキ属の落葉高木である。

 ケヤキは別名ツキともいい、ニレ科ケヤキ属の落葉高木で、枝下の空間が広く、こちらも街路樹などで親しまれている。

 東京都府中市にある東京競馬場には、第三コーナーと第四コーナーの中間あたりに、スタンド側から一瞬馬群が見えなくなる箇所がある。コースの内側に、実際はエノキであるにもかかわらず、「大ケヤキ」と呼ばれる、馬場に不釣り合いな巨木がそびえており、その木で馬の流れが遮られるからだ。

 その「大ケヤキ」の下には、東京都指定文化財の史跡である、戦国時代の武将「井田摂津守是政」の墓が保存されている。競馬場近くの「是政」という地名の由来でもある。

 なぜエノキなのに「大ケヤキ」なのか。

 なぜ下に戦国時代の武将の墓があるのか。

 なぜ競馬場のコースの内側にそんな巨木があるのか。

 東京競馬場では、競馬の祭典「東京優駿(日本ダービー)」など、いくつもの大きなレースが行われる。そもそも、なぜ大レースが行われるような日本を代表する競馬場なのに、しかも、大事な勝負どころで、視界を遮るような木がそのままにされているのか。

 それぞれの謎には諸説あって、本当のところはよくわからない。しかし、ここではそれが問題ではない。

 かつて大レースの最中、ちょうどその「大ケヤキ」のあたりで、人気馬が故障を発生(骨折を発症)し、回復が極めて困難として安楽死の処置がなされるという出来事があった。そいうことを知っているせいか、競馬関係者や競馬に詳しい人間の中には、「大ケヤキ」と聞くと、複雑な表情を浮かべる者もいる。競走馬が「大ケヤキ」の近くを通過する際に、何ともいえない張り詰めた心持ちになる人もいる、ということである。

 

 アナウンサーの青野克巳は、確かに「その瞬間」と言った。

 もう十数年も前の話である。

「その瞬間のことを思い出すと、今でもジワッと変な汗が出てくるんですよ」

 各馬がペースを上げ、第三コーナーからちょうど「大ケヤキ」のあたりに差し掛かる。

 一瞬、視界が遮られる。

 緊張が走る。

 次の瞬間、青野の目に飛び込んできたのは、やはり先程まで先頭を走っていたバイブスアゲインの姿だった。はからずも先頭に押し出された、十四番人気のその馬は、変わらず軽やかに走っている。

 バイブスアゲインの外、一気に上がってきた馬がいた。椎名清騎手騎乗の牡の三歳馬、この年の二冠馬であるカリカチュアライズだ。

 第四コーナー手前の勝負どころで、二番人気であるカリカチュアライズが動いてくることには、特に驚きはない。椎名騎手の騎乗はここまで完璧である。

 しかし、である。

 この直後、カリカチュアライズが体勢を崩し、大きく外側へ斜行した。

「後で何度も確認しました。

 一秒ちょっと、二秒もないんです。

 でも、自分の感覚では一〇秒くらい。もうアタマ、真っ白ですよ。

 あ、終わったな、と……」

 それまでいつものように熱のこもった、しかし、明瞭で流れるような実況をしていた青野の声が、スッと途切れた。

 「その瞬間」は青野にとって、それほどの衝撃だった。


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