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「有馬記念と雪と聖夜と」(その6)

 テレビに映ることもあるせいか、こざっぱりとした身なりで、刈り上げたソフトモヒカンの髪は適度な束感で整えられている。中肉中背、ネイビーのスーツに、ライトブルーのストライプが入ったボタンダウンシャツ、ネクタイはバーガンディかボルドーか、濃い臙脂のような色をしている。やや突き出た腹部だけが年齢を感じさせる。

実況アナウンサーの青野が競馬に興味を持ったのは、競馬好きの父親の影響だった。

「普通、競馬好きといえば、ギャンブルとしての競馬を思い浮かべますが、他にもスポーツのライブ観戦のような楽しみ方もあれば、脈々と続く血統ロマンについて語り合うような楽しみ方もある。動物としての馬自体がかわいい、なんて人もいますよね。ウチの親父の場合は、その全部なんですよ、全部。もう競馬に関する全てが好き」

 青野の父親は、何かというと「克巳、動物園に連れていってやろうか」「遊園地に連れていってやろうか」と青野を口実に、中山競馬場へ行こうとした。パドック(下見所)で間近に見る馬は迫力があった。思う存分駆け回ることができる広場やアスレチック、中に入って飛び跳ねて遊ぶ巨大な馬の風船もあった。千葉県船橋市で生まれ育った青野にとって、中山競馬場は「歩いて行ける動物園」であり、「歩いていける遊園地」であった。

 土日のレースが終われば、もう月曜から週末の予想が始まってる。途切れることがない競馬の話。生まれてから、ずっとそんな環境にいれば、否が応でも馬名や競馬にまつわる単語を覚える。ニゲ、サシ、オイコミ、サンカンバ、マンバケン……。そうなると父親の競馬仲間にかわいがられる。競馬に触れている限り、大人たちは嬉しそうに目を細め、自分のアタマを沢山撫でてくれる。幼い青野は、こうして競馬の世界に魅せられていった。そこにはキラキラとした宝石のような時間があった。

 定時に退社すると、まっすぐ家に帰り、まずサッと風呂を済ませる。そして晩御飯の支度ができるまでの間、ビールで一杯やりながら競馬新聞や競馬雑誌に目を通す。食事を終えると、今度は赤ペンで何やらメモを書き込んでゆく。毎日毎日、何年も何年も、それが繰り返される。子供である青野から見ても、父親は競馬のために生きているとしか思えなかった。

 青野の姉が誕生日を迎えるたびに、馬のぬいぐるみが増えていき、青野が誕生日を迎えるたびに、競走馬のキーホルダーが増えていった。機械の苦手な父親が携帯電話を替えるたびに、G1ファンファーレを着信音に設定させられた。面倒だなと思いながらも、父親の、屈託のない嬉しそうな顔を見ると、自分も幸せな気分になった。

 この人はきっと楽しくてしょうがないんだろうなと、一歩引いた視点で父親のことを見ていたのだろう。しかし、青野はそんな父親のことが嫌いではなかった。半分は父親に付き合う気持ちで、半分は本気で、競馬を楽しいと思うようになっていった。

 青野と競馬との蜜月は中学まで続いた。同級生たちが流行りのマンガやゲームの話をしている時に、青野は中央競馬の重賞データが網羅された分厚い本を、穴が開くほど眺めていたという。

「でも反動で、高校に入ると一切競馬には興味がなくなりましたね。ちょっと競馬を嫌いになったというか、もっと別のことをしたくなったのかな。

 ちょうどその頃、友達に誘われてアマチュア無線を何となく始めたりして。アマチュア無線なんて、大昔の趣味ってカンジで、その当時、超マイナーだったんですけどね。そういうところが、逆に自分に合ってたのかな。気が向いたら、部室でマイクに向かうカンジで気楽にやってました。

 まぁ、今思えば、結局自分の人生、この頃からずっとマイク握ってるんだなぁと思いますけどね」

 眼鏡のレンズを拭きながら、穏やかな笑みで青野は語る。

 熱を上げていた恋が一気に冷めるような、急激な転向は何においてもよくあることだ。多感な時期である。様々なことに興味を持つ中で、競馬への関心が薄れていったとしても自然なことである。あるいは反抗期特有の、親に対する反発心によって、父親を象徴する競馬というものから逃れようとしたのかもしれない。こうして青野は、競馬から距離を置くことになる。

しかし、彼の言葉を借りれば、結果的にはそれは「特徴のない、ただただ平凡な」学生生活を際立たせるだけであった。つまらなかったわけではない。無線の趣味も、学校生活も、友達付き合いも、それなりに楽しかった。

 ただ、未決定なその時間に、何もかも忘れて熱中できるだけの対象を見失ってしまったという空虚な感覚に、呆然としていただけなのかもしれない。あるいは、青春という言葉の持つドラマチックな響きに、意味もなく何かを期待していただけなのかもしれない。

 確固たる意志もないまま時は過ぎ、やがて進路を考える時期になる。もともと理数系は得意な方だったが、無線工学に興味を持ったことで、青野の進路は何となく決まる。高校を卒業すると、東京の大学の工学部に進んだ。

 相変わらず夢も情熱もない、何でもない日々が淡々と過ぎてゆく。何も起こらない人生に悶々としていた。

ここで青野は運命的な出会いをする。

「大学でも無線やってたんですけど、ライセンスフリー無線といって、免許のいらない無線のジャンルにだんだん傾いていって、ネットでそういう動画を見たり、オフ会に顔を出したりしているうちに、何となく、よく遊ぶ仲間みたいなのができてきたんです」

 つまり、青野の話を総合するとこういうことである。

 無線の世界は、驚くほど女性が少ない。九十九対一で、圧倒的に男の世界なのだという。しかも当時は、高齢化の進んだ閉鎖的な空気で、「波(目には見えないものの、そこら中を飛び交っている電波のことを彼らはこう呼ぶ)」の上は、さながら年配男性の社交場のようになっていた。

 無線遊びの入門機として古くからある市民ラジオや、スーパーマーケットや工事現場で使われる特定小電力無線など、免許のいらない無線機で楽しむライセンスフリー無線は、無線というニッチな趣味の世界の中でも、さらにニッチなジャンルである。ただ、当時、ネットを中心に静かな人気を呼んでいたため、比較的若い人や女性にも楽しまれているジャンルでもあった。免許不要で機器も入手しやすかったせいか、年齢層・性別・無線経験の長さなどもバラバラで、それが却ってオープンな空気を醸成していたのかもしれない。

 イベントなども頻繁に行われており、「波の上でよく出会う」人とオフ会で実際に顔を合わせると、まるで旧友に会ったかのような親近感を抱くのだそうだ。

 青野が当時付き合っていた女性も、そうして知り合った。

「お互い学生だったこともあって、趣味の話だけでなく、将来のことなんかも相談していたんですが、その女性がアナウンサー志望の方で、話を聞いているうちに自分もアナウンサーに興味を持った、みたいな。

 とにかく、彼女の好きなこと、興味関心のあること全てに、自分も同じでありたいというような……なんか恥ずかしいな。

 まぁ、若かったんでしょうね」

 恋は初めてではなかった。しかし、ここまで人を好きになったのは初めてだったという。何もなかったからこそ、そこに突然現れた、その素敵な女性が、青野の若い情熱を燃え上がらせるだけの充分な火種となったのだろう。

 この出会いがなければ、実況アナウンサー青野克巳は誕生しなかったかもしれない。人と人との出会いというのは、全く不思議なものである。

「でも……結局、その女性にはフラれてしまいました。同じ無線仲間だった年上の男性の方へ行ってしまった。そういうことがあったせいで、私は仲間の輪の中にも居づらくなって、何となく無線もやめてしまいました。

 ただ『何もない空っぽの自分』だけが残ってしまったんですね」

 言葉を操るアナウンサーにしては、月並みな表現である。

 だからこそ、本当に、この時の青野は、自分の中に何も見つけられなかったということなのだろう。

 中にないなら外に何かを見つけるしかなかったのか、失恋した青野は、自分がアナウンサーになることで、その女性を見返そうと考えた。そんなことをしても何の意味もないことは、自分が一番わかっていた。ただ、自分の人生には、過去にも未来にも、「何もない」のだと突きつけられているようで、生きているその瞬間すら、意味のないもののように思えた。だから、仕方なく、そうすることに決めるしかなかった。

「まぁ、結果的に、アナウンサーには、なることができたんですが、何も変わらなかった。当たり前ですよね。自分の心の中で勝手に決めて、勝手に達成しただけのことですから」

 当然、女性が自分のもとに帰ってくることなどない。そもそも本当にアナウンサーになりたかったのかもわからない。やはり自分には「何もない」ということなのか。

 道標を失った彼のいたたまれない姿を、近くで見ていた人がいた。

「競馬実況をやってみないか?」

 当時の上司が声をかけた。

 新卒採用の役員面接で、リクルートスーツに身を包んだ若い青野が、見てきたかのように子細に述べる古い競馬の話。場が大いに盛り上がったことを上司が覚えていた。年配の役員たちが、懐かしむように青野と話す光景に、ずっと何かを感じていたという。

 長らく忘れていた競馬。

 空っぽだと思っていた自分の中に、埃をかぶった宝石箱を見つけた気分だった。青野は語る。

「正月に実家に帰って、競馬実況やることになるかもしれないと親父に話したら、それはもう自分のことのように喜んでましたね。どのレースをやるんだ、関係者に会えるのか、馬に触れるのかと、もう子供みたいなはしゃぎようでした。

 なんでしょう、久しぶりにそういう親父の顔を見て、なんだか子供の頃の楽しかった思い出が蘇ってきて、ちょっと頑張ってみようかなという気になってきたんですね」

 パドック担当のアナウンサーからスタートし、その年の秋の中山開催で実況デビューした。慣れ親しんだはずの中山競馬場だったが、初めて競馬場の放送席に座った時には、震えが止まらなかったという。

「やっぱり、外から見るのと、実際に競馬の世界の中に入って見るのとでは、大きく違いますよね。自分のミス一つで、夢のような世界が壊れてしまうかもしれないと思うと、今でも緊張感がなくなることはないですね。ファンはもちろん、関係者の方々の生活……というか、人生がかかっていると思うと、絶対にミスはできないなと」

 競馬に関わる人々の様々な営みあってこそ、「夢のような世界」が成り立っているということを、幼い頃から競馬に親しんでいた青野は人並み以上に理解していたに違いない。その言葉には、競馬実況のプロフェッショナルとしての責任感よりも、むしろ「夢のような世界」を支える一員としての、切羽詰まった響きがあった。

 

 豊富な競馬知識を駆使した独特の言い回し、高いテンションで煽るような話し方。アナウンサーらしからぬ、ややオーバーな表現は、「青野節」と呼ばれ、早くから賛否両論あった。一部の声に萎縮することなく、アナウンサーの個性として伸ばしていけばいいと、上司は応援してくれた。

「なんとかやっていけそう……と言うか、ちょうど仕事の面白さがわかってきたというカンジでした。

 古い競馬の話を例えに使ったりしたので、オールドファンから喜んでいただけたのが嬉しかったですね」

 前年にスプリンターズステークスで初めてG1レースの実況も経験し、順調に競馬実況アナウンサーとしてのキャリアを積んできた三年目、それは突然やってきた。

 先輩アナウンサーが病気で急遽入院することになり、代わりに青野が有馬記念の実況を担当することになった。あと二、三年もすれば有馬記念の実況のチャンスも巡ってくるかもしれないと、自分なりのイメージは持っていた。しかし、あまりに突然の抜擢に心の準備が出来ていなかった。ただただ、青天の霹靂とはこういうものなのかと、呆然とするしかなかった。

「本当なら飛び上がって喜ぶような出来事ですよね。憧れの有馬記念、すごいチャンスなんですよ。

 それなのに、全然うれしくなかった。

 あの有馬記念でしたからね……」

 

 当時、新型ウイルスの感染拡大が世界的に深刻な問題になっており、人々は日々発表される感染者数や死亡者数の数字に一喜一憂した。競馬は年間を通してスケジュールが決まっている。数多くの競馬関係者たちは、それに合わせて様々な計画を立てて動いている。

 そして何より、競走馬は経済動物ではあるが、生き物である。

 少し開催を休んで様子を見るということが難しい。

 中央競馬ではウイルス感染拡大防止の措置として、競馬場に観客を入れない無観客競馬を行っていた。一時的に感染拡大が落ち着いた際に、指定席の事前購入を行った客に限定して入場させるなど、工夫を凝らしながら競馬を続けていた。長い間、そういう状況が続いたが、ようやく目処が立ち、翌年から競馬場に観客を入場させて競馬を施行することが、その年の早い段階には決まっていた。数年ぶりのことであった。

 それは全く予想もしないところから始まった。

 カリカチュアライズが東京優駿を制し、ダービー馬となった翌週のことだった。国会は会期末が近づき、会期延長の議論が続いていた。

 ウイルス対策における数々の失策が政局化し、政府には手詰まり感が漂っていた。ウイルスの感染拡大が落ち着いてきたこともあり、解散総選挙も現実味を帯びてきていた。「責任」という言葉が飛び交い、これまでの落とし前をどうつけるのかという空気も漂っていた。

 そんな矢先である。

 政権の人気回復を狙ったものか、選挙を見越したリップサービスだったのか、農林水産大臣の失言が飛び出す。

 当時の新聞に書かれた農林水産大臣の発言。

〈(今年のクリスマスは)ちょうど日曜日でしょ。ファンへのクリスマスプレゼントとして、ひと足お先に、有馬記念で観客を入れてみてはどうか〉

 JRAは農林水産省の外郭団体であり、農林水産省生産局畜産競馬監督課が監督している特殊法人である。農林水産大臣には、理事長など、役員の任命権はあるものの、具体的な競馬の施行に関して何かを決定する権限はない。発言の真意をめぐり国会は紛糾したが、それよりも、「有観客競馬再開」の世論が形成されていったことにJRAは慌てた。競馬ファンはもちろんのこと、普段、競馬とは縁遠いメディアや有名タレントなど、様々なところからも再開を熱望するコメントが相次いだ。

 競馬関係者は、それまでも開催を止めないために、様々な努力を重ねてきた。有観客競馬が原因で、万が一、感染が拡大するようなことがあれば、開催中止にもなりかねない。もう自粛もないだろうという鬱積した憤懣も、暴力的にネットの上を行き交ったが、「有観客競馬再開」の世論に、安易に乗ることはできなかった。実際、沈黙を守った関係者も多かった。

 G1レースがなく、暑さの厳しい夏は、休養をとる有力馬が多い。一方、デビューが遅かったり、春に活躍できなかった馬が、秋を見越して賞金の上積みを狙い、熾烈な争いを繰り広げる。この一般的に「夏競馬」と呼ばれる時期に、JRAは有識者会議を開き、「有観客競馬の有馬記念」について何度も検討を重ねた。

 翌年から再開が予定される有観客競馬の一週間前とはいえ、有馬記念はG1レースであり、十万人近い入場者が見込まれる。そこで、八月から十月までの首都圏四都県の新規感染者数の推移をもとに、十一月に最終判断することが発表される。

 すでに前年には感染収束の目処が立っていたことから、音楽やスポーツのイベントなどは早くから再開されていた。競馬以外の公営競技でも、すでに有観客開催となっていた。ファンは十一月の発表を祈るように待った。

 十一月中旬、例年であれば、出走させたい現役競走馬を選んで投票を行う「有馬記念ファン投票」が開始される時期に、それは発表された。

 大臣の失言から始まった「有観客競馬の有馬記念」は、ついに現実のものとなった。

「それは、まぁ、いいんですよ。喜ばしいことなんで。

 それよりも、何もこのタイミングで、という思いの方が強かったですよね」

 青野の言う「このタイミング」。

 そもそも、その年の競馬には、もっと特殊な事情があった。

 

 中央競馬の競馬場は、国内に十場存在する。当然、施設の劣化等に伴う改修が必要で、開催していない時期を見計らって工事が行われる。しかし、大きな改修の場合は、その競馬場で年間を通して開催そのものができないという状況が発生する。その年は、中山競馬場が大改修のため、皐月賞の行われる四月の開催を最後に、以降約二年半の開催中止が予定されていた。

 過去、東京競馬場が改修中の年には、天皇賞(秋)やジャパンカップが中山競馬場で行われたことがあった。そして、今度は逆に、皐月賞や有馬記念が東京競馬場で行われることになっていた。中山競馬場以外で有馬記念が行われるのは、改称前の「中山グランプリ」時代を含め、初めてのことであった。

 実況で聞くハイテンションとは対照的に、普段の彼は物静かで落ち着いた人物だった。目の細い、少し受け顎で大きな顔が、困ったように歪む。

「重馬場で、天気も悪い……

九レースのサンマルタン騎手の落馬事故でまだ動揺してるのに、いろんな方がニヤニヤ笑いながら、『これはこの先も何が起こるかわからんゾ』と脅してくるんですよ。

 中山と東京の違いで、ただでさえ混乱してるのに、正直、もう勘弁してくれってカンジでしたね」

 苦笑交じりに青野が振り返る。

 数年ぶりの有観客競馬、東京競馬場で初めて開催される有馬記念、落馬事故による乗り替わり、前日からの雪の影響による不安定な馬場、そして初めての有馬記念実況……

 今となっては笑い話だが、有馬記念の発走を前に、当時の青野は胃の痛む思いだったに違いない。

 その年、午後三時を回っても、有馬記念のパドックは始まらなかった。

 

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