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「有馬記念と雪と聖夜と」(その5)

  東京競馬場の七階の馬主席には、ゴール板の正面あたりに出走馬主ロビーというものがある。普段は東京馬主協会所属の出走馬主のみが利用できるのだが、G1レースのある日は、G1レースの出走馬主のみが利用できる。いくつもの低い丸テーブルを、落ち着いたダークブラウンの椅子が囲っている。

 その時も佐伯は、そろそろですかねといいながら、椅子から腰を上げたのだろうか。出走馬主ロビーを出ると、清潔感のある白いタイルの敷き詰められた通路がある。そこからガラスの扉を開けて外へ出ると、ひとつの大きな空間に一〇〇〇席以上の席がズラッと並んだ、馬主席がある。佐伯はそのうちのひとつに腰をかけ、輪乗りしている馬を眺めていたという。

「初めての有馬記念でしたから、ちょっと緊張してましたかね。自分の馬を確認して、これは現実なんやなぁと、ジワジワ実感が湧いてきました」

 これで最後になるかも知れないことを感じていた佐伯は、その有馬記念を、勝ち負けよりも、思い出作りに近い感覚で楽しんでいた。経営していた会社の財務状況が著しく悪化していたからだ。もう来年は所得も資産も馬主の登録要件を満たすのは難しい。もっと言えば、競馬どころではない。生きるか死ぬか、そんな状況だった。

 

 子供の頃の佐伯は、痩せて背も小さく、言葉の発達も遅く、身の回りのことも上手くできず、少しボンヤリしたところがあったという。両親はそれを早生まれのせいだろうと、あまりに気にかけていなかったが、小学校に上がってもそういったところは変わらず、同じ年代の子供が難なくできることにも、難儀する有様だった。同級生ともうまくコミュニケーションが取れず、一人遊びすることが多かった。大人と会話する際も受け答えはしっかりとしているものの、自動車の車種や古い家電製品の話など、非常に偏った話題が多く、会話が繋がりにくいこともしばしばあった。自分の興味のあることには、時間を忘れて熱中し、そうでないことには全く関心を示さなかった。学業は「そうでないこと」に含まれていたため、教師も成績のつけようがなく困り果てていたという。

 それでも小学校、中学校と義務教育の間はやり過ごせたものの、何とか入学できた高校も欠席続きで留年となり、そのまま投げ出すように退学してしまう。自分で自分をコントロールできない。もどかしかった。

 コンビニで、同じクラスだった中学時代の同級生に会っても、気まずくて、気づかないふりをして逃げるように立ち去る。近所の大人の視線が怖く、昼間に外に出ることができなくなる。

「高校生とか専門学校生とか、名乗るべき『何か』がなくなったんで、なんか存在したらアカン人間みたいな気になって、とにかく生きてるのが……辛かったですね」

 何者でもない自分。

 誰かが何かを言ったわけでも、したわけでもない。「あの子は、何やってるの?」と噂されている気がして、勝手に傷ついてゆく。

 見かねた両親は、何かのきっかけになればと、アルバイトやボランティアなど、様々なことを勧めてきたが、それが却って「何か」であることを求められているようで、苦しかった。

 だからと言ってなりたい「何か」があるわけでもなく、ただ無気力に生きる自分自身に嫌気がさし、踏切の前で何時間も何時間も逡巡した日もあった。

 気がついた頃には二十歳になっていた。真っ暗な、テレビの光だけが煌々と輝く部屋で、成人式のニュースを見ながら、ひとり絶望を味わっていた。それからもしばらくは、何をするでもなく、親の脛を齧りながら、テレビを見たり本を読んだりするだけの日々が続いた。

 学業を疎かにしてきたとはいえ、日常生活に支障のないレベルの知識はあり、弁えた言動もできる。しかし、それを客観的に証明できる証がない故に、これまでもこれからも、劣等感に苛まれながら、肩身の狭い思いで生きなければならない。なぜ自分がこんな人間として生まれなければならなかったのかと、忌まわしい血の根源である両親に恨みをぶつけるようになる。時には暴力を伴う形でもあったという。

 それは灰色の日々だった。

 ある日、コンビニでたまたま手にとった雑誌で「自作パソコン」のことを知り、少し興味を持った。もともとパソコン自体にも興味がなく、そういった類のものを全く触ったことがなかったが、時間だけは有り余っていたため、パズルをするような感覚で暇つぶしになればと思って始めたものだった。

 どういうものが完成するのかもわからないまま、少しずつ部品を買い集め、本を見ながら見様見真似で、組み立てていく。電源を入れ、OSすらインストールされていないただの真っ黒な画面が表示された瞬間、全身に鳥肌が立った。勝手な先入観で、コンピューターなど、立派な大学を出た大企業のアタマのいい人達しか作れないものと思っていた。それを、自分の力で生み出したという事実に、感動と興奮で、その晩、眠れなかったという。佐伯にとって、生まれて初めて味わう、成功体験だったのだろう。

 こうして、CPUやメモリなどのパーツを組み合わせ、自分の思い通りの性能のパソコンを組み上げていく自作パソコンの世界にのめり込んでいく。自作パソコンのパーツを買うために通ってた、大阪日本橋の電気街にある小さな中古パソコンショップに入り浸るようになり、やがてそこでアルバイトとして働くことになる。

「ちょうどパソコンが普及期に入った頃で、性能もどんどん上がっていった頃ですね。

 とにかくパソコンの知識が増えていって、店の仲間たちとそれをぶつけ合えるのがただただ楽しくて。店からもらった給料全部突っ込んで、店の商品を買うもんやから、自分でも何やってるんか、ようわかりませんでしたね」

 これまでの鬱憤を晴らすかのように、働き、遊び、人生を楽しんだ。店の仲間からも信頼され、必要とされ、幸せを実感した。ついに佐伯は居場所を見つけた。


 コミュニケーションが苦手だった佐伯も、やがて、店員たちを束ね、指導する立場になってゆく。新入りのアルバイトたちが大好きなパソコンパーツに囲まれ、燦々と光を放ちながら働く姿に、かつての自分を重ね、目を細めた。常に動き回り、肉体的には辛かったが、働くことが心地よいと感じていた。

 ある日、社会人となった中学時代の同級生が、客として佐伯のパソコンショップを偶然訪れる。似合わないビジネスコートに、似合わないスーツの同級生が、薄っぺらな笑みを浮かべながら、「今、こんなことやっててな」と名刺を差し出した。

「まぁ、テレビでコマーシャルやってるような、誰でも知ってる超大手企業の名刺でした。そいつにしてみれば、嬉しかったんでしょうね」

 少しずつ社会の仕組みもわかり始め、自分のことも客観的に見ることができるようにもなっていた。四捨五入すれば三十という年齢で、リーダーとはいえ、まだアルバイトのままだった自分と、超大手企業のサラリーマンとなった同級生。比べても意味がないと思いながらも、奥の方には、何とも言えない感情が横たわっていた。

「ずっと心にそれが引っかかってて、このままでええんかなって。

 だからといって、どうしてええかもわかりませんし、何ができるでもない。

 どうせ中卒のフリーターや、どうせオレなんか底辺や、とか口では言いながら、誰かに『そんなことないよ、充分がんばってるよ』ゆうて慰めの言葉をもらって、ただひたすら、気ぃ紛らわせ続けてましたね」

 気づかないふりをしたまま、ただ歳を重ねていた。時は残酷なまでに平等に過ぎてゆく。現実は変わらずそこにある。気ばかりが焦った。

 ボーナス商戦真っ只中の年の瀬、大阪日本橋の電気街は、その日も年末の休暇に入った多くの買い物客で賑わっていた。

「もともと店長が競馬やってることは知ってたんですが、その日は自分の好きな馬の引退レースやからと、有馬記念の時間に店のテレビつけてたんです。

 当時の日本橋って、土日はものすごく人出が多くて、その時も店が回ってないくらいでしたから、正直、ええかげんにしてくれよと思ってました」

 三年前に来た店長は、パソコンの知識はそれ程だったが、効率よく丁寧に仕事をこなし、博識で人あたりもよく、アルバイトからの人望も厚かった。ただ競馬への入れ込みようにはただならぬものがあり、「週末の店長は処理落ち(何らかの要因で、コンピューターの動作が止まったり遅延したり不安定になること)する」と店員たちに揶揄されていた。

 ボリュームはそれなりに絞っていたが、G1のファンファーレが鳴ると、一部の客がそれに反応し、テレビの方へと集まってくる。佐伯はレジの裏で商品を梱包していたが、手を止めて、「何気なく」テレビの方を見た。

「本当に何気なく、クビを伸ばしてテレビを見たんです。有名な馬が出てるのかとか、誰が強いのかとか全くわからないんで、ただ見てるだけだったんですが、ゴール前で二頭の馬が競り合うんです。ゴールの瞬間、うわっ、どっちが勝ったんやって。全然、興味ないくせに」

 何の前情報もなく、興味がないまま見たレース、それなのに接戦の行方が気になった。店長の応援する引退する馬と、翌年も現役で戦っていく馬の、二強対決のレースで、ゴール前で競っていたのもその二頭の馬だった。写真判定に持ち込まれ、なかなか結果が出なかったため、客が店内の通路に滞留する。それを見て、何かセールでもやっているのかと勘違いした通りの客が、店に入ってくる。十二月にも関わらず、店内は異常な熱気に包まれた。

 結果はハナ差で、現役でやっていく馬が勝った。なんだ競馬か、という不満とも落胆ともつかない声と、世紀の大接戦を目の当たりにした興奮の声が入り混じり、店内は一瞬、奇妙な声に包まれた。その声が、その空気が、何となく可笑しく、その場にいた全員が、一斉に笑った。店長も泣きながら笑っていた。

「感動とはちょっと違う……何というか、暖かいというか、爽やかというか、変な一体感みたいなのがあって、うわっ、これが競馬か、って」

 こうして佐伯は競馬と出会った。

 

 店長の手ほどきを受け、佐伯は競馬にのめり込んでいく。自作パソコンに興味を持った時もそうだったように、一度興味を持つと、凄まじい勢いで知識を吸収していくようなところが、佐伯にはあった。競馬は現実に対する目隠しとなり、佐伯の焦燥を紛らわせてくれた。

 緩くウェーブのかかったサラサラの髪をセンターで分け、四角い黒縁のメガネから覗く目は優しい光を帯びている。笑うと左の頬にある、やや大きめのほくろが派手に動く。仕事中の冷静で落ち着いた雰囲気が、競馬の話になると熱くなり早口になる。そのギャップに佐伯は魅力を感じた。ヒョロっとして背が高く、いつも無彩色のクルーネックのカットソーを着た店長との距離は、競馬を通して次第に縮まっていった。

 店が終わった後、佐伯は店長から飲みに誘われたことがあった。店の懇親会でみんなで飲むことはあっても、店長とサシで飲むのは初めてだった。

「もしかしてクビなんかなぁと、めちゃくちゃ緊張したんは覚えてますね。

 店から居酒屋に行く間のほんの数分、二人とも黙ってて……だから、尚更、驚きましたよ」

 絶対に誰にも言うなよ、と店長は珍しく厳しい表情で、囁くようにこういった。

「『オレと一緒に新しい店やらへんか?』って。この人、何ゆうてんねやろと思いました」

 計画はかなり前から綿密に立てられていたようで、説得力のある内容だった。才覚のある店長は、これから加速していく時代に対応するためには、いずれ自分でやらなければならない日が来るだろうと、長い間、アイデアを温めていたのだという。パソコンが一家に一台どころではなく、一人一台の時代になるという店長の慧眼と、自分のパソコンの知識を高く評価し、是非共同創業者にと懇請してくれる姿に、激しく心が動かされた。一応、少し考えさせて欲しいとそれらしい雰囲気で別れたものの、そこまで強く人に必要とされる喜びに、帰りの電車の中で佐伯は、涙が止まらなかったという。

「そこからはもう、ベタな言い方ですが、馬車馬のように働きましたね。ほんまの最初は、店長と自分の二人だけやったんで、ブラック企業どころの話やないくらいでしたよ。

 でも楽しかったですね。なんか遅れてきた青春みたいで」

 佐伯にとって店長からの誘いは、失われた時間を取り戻す契機となる、啓示のようなものだったに違いない。今更という思いと、何かが変わるかもしれないという思いに、心が揺れる。考えないようにするには、仕事に打ち込むよりほかなかった。三十路を前に、すっかり遅くなった夏休みの宿題を片付けるように。

 もう一店舗、もう一店舗と、佐伯と店長のパソコン販売会社は年々拡大していった。時間に追われ続ける生活は、余計なことを考える暇すら与えなかった。それは、佐伯には良い影響をもたらしたが、そうではない影響を受けた者もいた。

「ボーナス商戦も終わって、秋口でしたかねぇ、急に店長に呼ばれて。

 もうそろそろ『店長』はやめてくれへんかって」

 珍しく数日の休みを取った店長が、久しぶりに出勤するなり、佐伯に声をかけた。

「怒ってるんかと思て謝ったんですが、そうやなくて、社長代わってくれへんかと。

 ビックリしたというか、相変わらずわけわからん人やなぁと」

 もうその頃には、現場は佐伯が仕切り、店長は経営に専念していたため、四六時中、顔を突き合わせているわけではなかった。みぞおちのあたりが痛い、あまり食欲がないと、店長がちょくちょく病院に行っていたことは、佐伯も知っていたが、突然のことで混乱した。

 もう長くないかも知れないということ、自分は代表権のない会長に退き、佐伯が代表取締役になること、後は全て佐伯に任せるとこと、残りの時間は好きに過ごさせてほしいということ……時折メガネの位置を直し、苦笑しながらやや早口で話す。左頬のほくろが激しく動く。ステージⅣのガンだった。

「私の肩をポンと叩いて、『まぁ、そういうことやから、後は頼むわ。悪いな』って笑うんですよ」

 佐伯は、その時の店長の、無理に作ろうとした中途半端な笑顔が、今でも忘れられないのだという。

 何者でもなかった自分が、気がつけば、「代表取締役社長」になっていた。ここまで導いてくれた店長には感謝の念しかなかった。八ヶ月後、店長はこの世を去った。それは佐伯の人生における、一種の卒業式のようだった。

 

 会社はその後も成長を続ける。パソコン本体やパーツの新品・中古販売だけでなく、法人向けのリースやメンテナンス、パソコントラブルの救急サービスと事業はどんどん拡大していった。

 若きベンチャーのトップ、アルバイトからの叩き上げ、中卒社長、創業者との涙の別れ……話題性のある成功物語は、メディアにも取り上げられやすく、講演やイベントに呼ばれる機会も多くなっていく。佐伯は多忙を極めた。

 そんな中であっても、佐伯にはどうしても取り組んでみたい、ある計画があった。

「ご存知ですか?

 サラブレッドって、ずっと血統を遡っていけば必ず三頭の種牡馬に辿り着くんです。ダーレーアラビアン、バイアリーターク、ゴドルフィンアラビアン……この三頭。三大始祖っていうんですけどね」

 店長との思い出の中で、忘れられない話がある。まだ佐伯がアルバイトで、店長が店長だった頃の話だ。休憩時間に何気なく店長が語った。それは、いつか馬主になって、ダーレーアラビアン以外の血統を再興したいというものだった。

 日本で走っているサラブレッドは、ほぼダーレーアラビアンの子孫で、バイアリータークとゴドルフィンアラビアンの子孫は絶滅寸前だった。店長は三大始祖の血統がそれぞれ繁栄しなければ、やがてサラブレッドは、競馬は、滅びるのではないかと考えていた。

「どんなことでも極端に偏ると行き詰まる、極端なのはアカン、そんなことをよう言うてましたね」

 店長がなぜそう考えたのかはわからない。自分から過去を語るタイプではなかったので、あまり恵まれた家庭環境ではなかったということぐらいしか、店長の過去については知らない。店長にもいろいろあったのだろうと、佐伯もそれ以上、聞こうとはしなかった。

 店長はサラブレッドや競馬を愛していた。だからこそ、人間が人間の都合で生命を弄び続けることに、人並み以上に複雑な思いを抱いていたのだろうと佐伯は考えている。もともと競馬で一儲けしようという考えは、店長だけでなく、佐伯にもなかった。ただ、どの馬が勝つか、どんなレース展開になるかといった観点でしか、競馬を見ることができていなかった佐伯は、サラブレッドや競馬の未来にまで思いを馳せる店長の競馬愛の深さに感服し、その言葉がずっと心に残っていたのだという。

「会社はもちろんですが、そういう店長の果たせなかった夢も、自分が引き継ごうと。

 まぁ、そう言えばカッコいいですが」

 血を受け継いでゆくという、サラブレッドの血統の物語に、自らの中に流れる血を恨んだ佐伯ならではの苦い記憶が、微かに反応したのかもしれない。

 残念ながらバイアリータークの血を引く種牡馬は、すでに日本には存在していなかった。一方、ゴドルフィンアラビアンの血を引く種牡馬はほんの数頭、辛うじて残っていたという。

 佐伯は九州へ足を運び、その産駒を買うことから始めようと考えた。一般にサラブレッドの生産地といえば北海道を連想するが、九州にも馬産地があり、そこにゴドルフィンアラビアンの血を引く一頭の種牡馬がいた。チャンスエンラックという名の栗毛の馬で、現役時代は「高松宮記念(中京競馬場一二〇〇メートルで行われるG1レース)」「スプリンターズステークス(中山競馬場一二〇〇メートルで行われるG1レース)」とG1を二勝、主にスプリント(短距離)路線で活躍した快速馬だった。当時の流行血統とは真逆の、異端中の異端といった血統だったが、近親交配になりにくく、配合検討の幅が広かったため、細々とではあるが需要があった。

 程よいチャンスエンラック産駒を購入しようと考えていたが、佐伯が牧場関係者に事情を話したところ、ある牧場で面白い提案があった。良血牝馬を購入し、チャンスエンラックを種付けしてはどうかというものだった。

 種牡馬の成績は、どれだけ産駒が勝ったか、賞金を稼いだかで決まる。そのためには、種付け数を増やして、より多くの産駒を送り出すことも大切だが、産駒の勝つ可能性が高い有力な牝馬に、どれだけ種付けできるかということも重要な要因だった。

 間もなく牧場から、面白そうな牝馬のリストが送られてきた。父が短距離の得意なスピード自慢だったことから、素人なりにスタミナのある母馬がいいだろうと考えてはいたが、リストを見てすぐに、佐伯はある一頭に惹きつけられた。

「店長の応援していた、有馬記念でハナ差負けて引退した、あの馬の娘がいたんです。産駒も二四〇〇のレースで実績出してたし、何より母方の数代前にバイアリータークの子孫の血が入ってて、もうこれしかないやろなと思いました」

 その芦毛の牝馬は、やがてチャンスエンラックの子を、ゴドルフィンアラビアンの子孫を産んだ。母と同じ芦毛の、元気の良い牡馬は、「アールジービー」と名づけられた。RGB、すなわち色の三原色のことで、パソコンなどでの画像再現に用いられる技術用語だ。三原色を重ねていけば灰色味を帯び、やがて白になる。三大始祖の血が重なって生まれた灰色の、芦毛の馬が、やがて白星をあげるようにという願いを込めて名付けられた。ちょうど店長の十三回忌の年だった。

 アールジービーは新馬戦こそ負けたものの、その後、二連勝する。馬主となって最初の一頭で一勝できるなど奇跡的なことだと、誰しもが口々に褒め称し、佐伯は夢心地だった。これなら店長の、いやその頃にはすでに自分のものにもなっていたであろう、ダーレーアラビアン以外の血統を再興するという壮大な夢も、あながち不可能ではないと思った。

 しかし、現実はそれ程甘くはない。

 

 芦毛の牝馬を購入し、チャンスエンラックの種付けを行った年、つまり、アールジービーの生まれる前年、佐伯の会社である事件が起こった。この頃には経営も安定し、会社の認知度も高まってきたことで、多様な人材の確保も容易になっていた。大手広告代理店出身でマーケティング部門のトップとして迎えた執行役員は、まだ三二歳と年齢こそ若かったものの、確かに優秀な男だった。業界知識が豊富で、派手な施策を矢継ぎ早に打ち出し、会社のブランドを一気に向上させた。証券会社からも株式公開の話があり、そろそろ真剣に検討しようかと考えていた時期だった。

「毎晩毎晩、打ち合わせと称して飲み歩いたり、金遣いの荒いところがあって気にはなってましたが、結果も出していたし、目をつぶっていたんです。広告業界出身だったんで、そんなもんなのかなぁと。

 でも、ある時、会社に変な電話がかかってきて……」

 執行役員の決裁権限を遥かに超える金額で、ある広告代理店にキャンペーンの発注がされており、その入金確認がとれないのだという。同様の事案がいくつか発覚し、社内で調査を進めた結果、不透明な発注が大量に見つかった。中には、イベントの発注にも関わらず、何のイベントも行われていないというような杜撰極まりないものもあったという。

「そもそもそういうことがまかり通ってしまう会社の体制というか、そういう状態をそのままにしていた私の責任なんです。

正直にいうと、この頃、上場の話なんかもあって、銀行や証券会社にもちやほやされて、私自身もかなり浮かれてたと言うか、調子に乗っていたところがあって……

 今は亡き店長の夢を叶えるんや、とかいいながら、結局は仕事もそこそこに、競馬にかまけてただけなんですよね。

 ホンマ、アホですわ、アホ」

 これまで真面目にコツコツ頑張ってきた反動もあったのだろう。あるいは、常に先頭に立って指針を示してくれていた店長がいなくても、パソコンしか知らないアルバイト上がりの中卒でも、これだけできるのだという、自己陶酔に近い感覚があったのかもしれない。

 この時期、佐伯にとって不幸だったのは、胸襟を開いて語り合える相談相手がいながったことだ。店長亡き後、彼は独りでやってきた。もちろんまわりには優秀なスタッフがいたものの、業績に責任を持ち、社員やその家族の生活を保証し、会社の未来を提示し続ける役割は、トップである佐伯にしかできない。経営というものの難しさを実感し、本音のところでは、自己陶酔ですら誤魔化せないほどの恐怖に、独りおののいていたのだろう。

 会社の業績は年々悪化していく。金を失うことよりも、その事件で社内外の信用が失墜したことの方が深刻だった。噂は業界内にも広がり、取引先は少しずつ減っていった。適材適所だった人事が崩れ、社内に燻っていた不満は一気に表面化し、一緒に成長を支えてくれたメンバーたちも、「社長は変わった」「会社を信用できなくなった」と次々、会社を去った。売上は激減し、いくつかの店舗を閉鎖し、固定費を抑えるためにリストラも行った。店舗運営や法人営業の最前線で活躍していた現場のベテラン社員たちがいなくなった結果、店も会社も回らなくなる。佐伯の判断は鈍り、判断ミスが別の判断ミスを誘発する悪循環に陥る。一滴の毒は、ゆっくりと確実に、佐伯と店長の会社を蝕んでいった。

「もうどうしたらええんか、わかりませんでしたね……

 生きているのがちょっと辛かったかな」

 大阪から電車に乗ったはずが、気がつけば神戸の知らない駅のベンチに座っていたことがあった。宛もなく彷徨い、どこだかよくわからない大きな道路沿いのファミリーレストランで一晩を過ごした。そう言えば若い頃にもこんなことがあったなと妙な懐かしさを感じながら、終焉の景色を探った。パトロール中の警官に声をかけられなければ、どうなっていたかわからない。

 アールジービーが、「神戸新聞杯(阪神競馬場二四〇〇メートルで行われる三歳の重賞で、三着までの馬に菊花賞の優先出走権が与えられるトライアルレース)」で二着になり、菊花賞への出走が決まったこと救いだったが、それとて佐伯の気を紛らわせるには充分とはいえなかった。


 デビュー以来、主戦騎手としてアールジービーとコンビを組んできた桑原正男は、菊花賞の後、佐伯の前で何もいわず土下座したという。佐伯は語る。

「なんぼなんでも騎手がそこまでするなんか、普通ではあり得ませんよ。まぁ、忸怩たる思いやったんでしょうね。『桑原さん、もうええよ。次また頑張ろ。アタマ上げてや』って、私も制したんですけど、しばらくそのまま、地面に頭つけて。

 そういうところが、桑原さんらしくて、ええんですけどね」

 差のない三番人気で迎えた菊花賞は、全く見せ場のないまま、八着に敗れた。

 キャリアのわりには成績も地味だったため、騎乗機会に恵まれなかった桑原は、調教師の紹介で佐伯のアールジービーに乗ることになった時、この馬に賭けようと思っていた。美しく優雅な芦毛の馬体とは裏腹に、妙に血走ったギラギラとした目が、馬のそれというより狂犬のようで、ひと目見た瞬間、「勝利に飢えた野獣」のようだと思ったからだ。それなりに様々な馬を見てきたつもりだったが、アールジービーは今まで見たどんな馬とも違う、異様なオーラを纏っていた。この馬なら、流れを変えてくれるかもしれない。桑原にはそう見えたのだという。

「結局、その印象自体は間違っていなかったと思います。非常に気性の荒い馬で、とにかく、レースに集中させるのが難しかった」

 目を閉じて、当時のことをひとつひとつ思い出しながら、ゆっくりと、桑原は語る。

 ジョッキー時代と変わらない、やや長めのスポーツ刈りのアタマには、今や白髪の方が多くなり、それなりの年齢を感じさせる。シワの多い浅黒い顔は、あまり表情を変えない。濃紺のウインドブレーカー姿も、いかにも競馬関係者らしい。佐伯より一つ年下のはずだが、かなり老けて見える。

 その後もアールジービーと桑原のコンビは、勝ちきれないレースが続いた。重賞戦線で活躍するも、信頼されず人気を落としている時に限って二着、次こそはと一番人気に推されながら二着、他に強い馬がいて三強レースといわれるようなレースでも間に入って邪魔するように二着……。一着にはならないものの、二着や三着のレースが続き、アールジービーはいつしか「シルバーコレクター」という不名誉なあだ名で呼ばれるようになった。

 それでも佐伯は、桑原をアールジービーから降ろそうとはしなかった。桑原は口数の少ない無愛想な男だったが、自分とも歳が近く、何より、真面目で人付き合いが不器用なところに、親近感を覚えていた。昔の自分を見ているようで、「どうしてもこいつを男にしてやりたい」と佐伯は強く思った。桑原もそんな佐伯のはからいに、何とか結果で応えたいと、休みの日にまで厩舎を訪れ、アールジービーの様子を見に行くなど、勝つためにできることは全て試す意気込みだったという。

 その年は天皇賞(秋)では、コントドフェ、トリノサクラの三着だったが、トリノサクラが巻き返した次のジャパンカップでは六着に沈んだ。高い能力がありながら、その激しい気性のせいでうまく結果が出せないまま二六戦二勝、ここ二年は一勝もできていない状態だった。

「自業自得です。

 会社はガタガタで、競馬の方も限界かなと。何一つうまくいかなくて、このままでは天国の店長に顔向けできないと思いながら、動けば動くほど泥沼にハマっていく。

 もうそろそろ終わりにしようって。自分にとって清算の有馬記念やったんです」

 パソコンショップのアルバイトをしていなければ、店長とも出会わなかった。有馬記念を見ることもなかっただろうしし、競馬に興味を持つこともなかっただろう。競馬を通して店長と仲良くなっていなければ、会社を起こすこともなかった。全ては繋がっていて、今の自分がある。だからこそ、佐伯は有馬記念で様々なものを清算したいと思ったのかもしれない。

 だから、アールジービーを、自分の馬を、有馬記念に出走させることができただけで目的は達成だった。この有馬記念を店長が見たらどんなに喜んだだろうと、佐伯は思った。

 

#創作大賞2023 #まつりぺきん #小説

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