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「有馬記念と雪と聖夜と」(その1)

【あらすじ】
あるクリスマスの日に行われる有馬記念、馬主の佐伯俊彦が十数年前、同じくクリスマスの日に行われた有馬記念を回想する。その実況を担当していたアナウンサーの青野克己、今をときめく女性ジョッキー土屋優子、天才ジョッキーと謳われた椎名清、椎名の同期の二世ジョッキー来栖真司、そして彼らに関わる様々な人々。それぞれがそれぞれの立場から、十数年前、特殊な条件下で行われた有馬記念について語る。現在の彼らにとって、あの有馬記念は何だったのか。一つのレースに交錯する、それぞれの人生を振り返りながら、今まさに、今年の有馬記念が始まろうとしている。

  低い空だった。

 雨とも雪ともつかないものが時々パラパラとくるものの、降りきらない天気が続いていた。

 一面のガラスに灯りが反射している。正面には大きなターフビジョンやゴール板が見える。四階の高さから見下ろす馬場には、突き棒で芝を叩く、グリーンやピンクの服を来た作業員の姿が見える。次のレースまでの限られた時間で、めくれ上がった芝を戻したり、叩いてコースを平坦にしたりといった芝コースの補修を行うのだ。馬場はかなり回復したものの、まだ良い状態とまではいえない。

 その日、佐伯俊彦は、馬主として中山競馬場の馬主席に座っていた。ゆっくりと辺りを見渡しながら、佐伯は言う。

「やっぱり懐かしいですねぇ……あぁ、懐かしくはないか、東京ちゃいますもんね」

 前日、晩まで断続的に降り続いた牡丹雪は、少し積もりはしたものの、夜中の間に概ね溶けてしまい、朝にはすっかりなくなっていた。地面は濡れていた。ところどころに水たまりができていた。

 午前中はまだ、時々日がさすこともあったが、午後になるとそれもなくなってしまった。


 馬主席のラウンジにある煉瓦色のソファに腰かけ、時折スマートフォンの画面を見ながら、佐伯はぽつりぽつり語る。関西訛りを抑えるように、慎重に、言葉を選びながら。

 決して若作りではない。

 仕立ての良いスーツから覗く、ロールの美しい真っ白なイタリアンカラーのシャツ。サックスブルーのドット柄のアスコット・タイ。テンプルに木を使用したツーポイントのリムレス眼鏡。髪こそ白髪交じりだが、豊かで艷やかだ。とても還暦には見えない。

 直前のレースで、二着に入った馬の進路妨害があったようで、長らく審議が続いていたが、着順通り確定した旨が場内にアナウンスされた。歓喜と落胆の混ざったゴォッという外の歓声が、ラウンジまで届いた。

 すっきりしない天気のまま、競走馬たちが馬場に姿を現した。十数年前と同じように、少し遅れて本馬場入場が始まった。

 ファンとしての競馬歴も長い佐伯だが、ギャンブルとしての競馬にはあまり興味がなく、馬券はほとんど購入しない。

 しかし、その日は珍しく購入している。

「実は心に決めている馬がいましてね、それを軸に馬単総流し。人気ないみたいんで、当たればそこそこ(配当が)つくんちゃいますか。

 馬連を買うことはあっても、馬単なんか絶対買わないんですけど、今日は、なんか、ちょっと、そういう気分なんですかね」

 一着と二着になる馬の、馬番号の組合せを当てる「馬連」は、比較的シンプルで昔から多くのファンに親しまれてる馬券である。一方、「馬単」は、一着と二着になる馬の、馬番号を着順通りに当てる必要があるため、馬連よりも難易度が高い。その分、高配当になりやすい。「総流し」とは、軸馬(軸となる一頭)と他の全ての馬との組み合わせによる馬券の買い方のことである。

 そんなちょっとした勝負をしたくなる程度に、その日の佐伯の心は高揚していた。


 年末、中央競馬の一年を締めくくるレースとして中山競馬場で行われる「有馬記念」は、ファン投票上位馬に優先出走権が与えられる。成績だけでなく、ファンの「夢」が反映されるため、ドリームレースと表現されることも多い。

 馬主である佐伯の所有馬は、この日開催される有馬記念には出走していない。「夢」を乗せて走る十六頭の中に、佐伯の所有馬はいないのである。

 雲に覆われた空は暗く、重く、相変わらず低い。風は冷たく、少し強くなってきていた。

「ようやく帰ってくることができたんですね、有馬記念に」

 その日、他の大勢の競馬ファンとは異なり、佐伯だけは、十数年にわたる長い長い「夢」の中にいたのかもしれない。

 そろそろですかねといいながら、佐伯はソファーから腰を上げた。外ではついにみぞれが降り出した。

 今年も有馬記念が始まろうとしている。

 

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