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曖昧さと歯がゆさと愛しさと

9/25日記

✍️父方のおばあちゃんのお墓参りに行った。
父からしたら母である。
幼い頃は頻繁にお墓参りによく来ていたが、20代は一度も行かなかった。
30代に入り、ぼんやりと思い出し行きたくなった。
父にお墓参りに行っているなら連れて行って欲しいと尋ねたら全く行っていないし、もう行くことは無いとのことだった。
大阪の豊中と言うこともあり、私の運転技術では行けず誰かに頼らざるを得ないのだ。
しかし、あんなに頻繁に行っていた父がパタリと行かなくなった理由も気になったが、話てはくれなかった。

なので結婚後は旦那さんにお願いし年に2回連れて行ってもらっている。
やはり行くと落ち着くし、なぜか安心した。

しかし私はおばあちゃんとは会ったことがない。
私が生まれて翌月に亡くなっているからだ。
しかし以前、私の記憶には無いが父が私が生まれてすぐにガン病棟のおばあちゃんのところへ連れて行ったことがあるとは聞いていた。
それにしてもなぜかお墓に行くと安心するなんて妙な感覚だ。

なぜ安心するのかは分からないが私にとって大切な場所であることだけは確かだ。
家族皆で来てお墓の掃除や手入れをし、最後に手を合わせ話しかけて帰る。
あの幼き頃の習慣が何十年と経て再び私の習慣となった。
昔ほどはお墓に行けないが、私は何だか嬉しかった。

なぜ安心感や嬉しさがあるのか知りたいが、うまく言語化できずにいた。
しかし、時に全てを知ることを敢えて止め、感覚のみを自分に宿す。
自分とは複雑な生き物でまだまだ未知な生き物なのだとつくづく感じさせられた。
それに全てを理解しようとするのも悪いことではないが、まだまだ未知ではっきりしない自分の中の曖昧さを残しているのも歯がゆいが愛しさを感じる。
そんな曖昧さや歯がゆさは大事な感覚であり、私の一部なんだと感じた素敵な一日だった。
またお墓参りに来られてやっぱり良かったなと大事な私の居場所に感謝した。

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