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「戦争を始めるのは誰か」の備忘録的まとめ

各章を簡単にまとめてみました。

第1章「第一次世界大戦の真実」

イギリスの第一次世界大戦への参戦は不純な動機であった。しかし、それを国民や世界に納得させるために、活発的なプロパガンダを行う。しかしこれが後の終戦後に、少なからず悪影響を与えてしまう。余りにも国民がドイツへの憎悪を膨らまし過ぎていた。本来、この戦争は「民主主義vs専制主義」であると掲げていたが、人民の戦争へと変貌させてしまったのだ。そして、歯止めが効かずドイツへの損害賠償が膨らむ。アメリカのウィルソン大統領は英仏を抑制しようとしたが勢いは止まらず、これが原因でのちのナチス・ヒトラーを生み出してしまった。14か条平和原則を信じて降伏したドイツであったが、それをアメリカが結果的に守れない形になってしまったのだ。

また、ポーランドやチェコ・スロバキアに代表する小国の戦後における傲慢さも述べている。本来、少数勢力であったはずが権力を得た瞬間、他の少数民族を迫害したのだ。ここに、強者と弱者の心理的行動が見て取れるとした。

第2章「第一次世界大戦後の歴史解釈に勝利した歴史修正主義」

戦後、歴史修正主義は勝利を獲得した。各国が戦争に疲弊し、冷静な姿勢を持つことが出来たのもその理由の1つだ。また、その多くの要因を担ったのは経済家のケインズである。彼はウィルソン大統領を批判し、ベルサイユ条約がドイツを裏切ったと主張した。歴史家フェイのベルサイユ条約体制批判も、その一端を担った。そして世界各国がアメリカを中心に軍縮化の方向性に進み、英米日の軍艦を縮小することから実現していった。

ドイツへの非現実的損害賠償額に関しても、批判が集まった。世間は分かっていたし、それを要求する英仏も分かっていた。しかし、戦争で膨らんだアメリカへの債務が損害賠償増大を加速させた。各国の欲が全ての原因である。アメリカは欧米各国が支払えなくなってきたタイミングで武器の輸出を止めるべきであった。しかしアメリカもそこの旨みに欲が出た。歯車は狂い、ドイツはナチスヒトラーの誕生へと進んでいく。

第3章「ドイツ再建とアメリカ国際法務事務所の台頭」

第一次世界対戦終了後、連合国はドイツへ莫大な損害賠償を要求した。この返済のために新しくスキームが出来た。イギリスは自国経済の発展にはドイツ経済の復活が必要と考えていて、アメリカはドイツ復興への融資により新たな経済発展を目論見、唯一フランスだけはドーズプランに反対したが軍国主義的指摘を恐れ、流れに乗った。このスキームにより、多くの米国資本家や企業家がドイツ経済復興を支援した。ヒトラーを作ったのはアメリカだと言われる所以はここにある。

第4章「ルーズベルト政権の誕生と対ソ宥和外交の始まり」

戦後、アメリカではルーズベルト政権が発足した。前任のフーバー大統領を無駄使い政権と避難したが、彼自身が行ったニューディール政策もうまくはいかなかった。それまでの市場放任主義を撤廃し、中央政府による経済政策によって不況を抜け出せるというものだったが結局はヨーロッパ戦線のスタートにも影響を受けて失敗に終わった。

日本の満州事件にアメリカのスチムソン国務長官はかなり憤怒した。ベルサイユ体制を崩したくないアメリカ側にとって、それは許されない日本の愚行であった。しかし、日本を敵に回したくないという思惑はアメリカ国内にもあり、外交官や大使がスチムソン国務長官に積極的に満州事変の概要と歴史的背景を伝えた。日本の松岡洋右も何とか説得しにいくが、ルーズベルト大統領まで辿り着けず、結局両国の関係に日々が入ることになる。

ソビエトはアメリカに国として認められることに躍起になっていた。しかし歴代共和党大統領は認めない方針を取っており、それは国民の間にも支持されていた。ただ、ルーズベルト時代のアメリカはとにかく不況に喘いでいた。貿易相手としてソビエトは満足いく相手であり、ソビエトを国家承認することはいつの間にか世論の大半を占めていた。もちろん政府内部でソビエトを危険視し、国家承認することに反対していた者は多く存在した。多くの外交官はソビエトの内部事情を知っていたため特に反対したが、ルーズベルトの悪癖で、そういった情報を持っている人の話を聞かずに政策を進めてしまうことがよくあった。結局、アメリカはソビエトを国家承認することになる。

第5章「イギリスの思惑とヒトラー」

イギリスは戦後、表立ってではないがドイツに対して宥和的な関係性を築いた。それは自国の経済がドイツ経済の発展と結びついているからという背景もあったが、ロシアやフランスなどの共産主義的国家のヨーロッパ侵略をドイツが防いでいると考えたからである。これはスペイン内戦でも見て取れる。スペインの共和国政府・フランス・ロシアvs反政府軍・ドイツ・イタリアの構図ができていたのだ。イギリスは、当然ロシアやフランスより軍事的支援の要請を受けたがこれに反応しなかった。むしろドイツと英独海軍協定を結び、間接的に防共側に立ったのだ。後に、元英首相のロイド・ジョージはヒトラーの元を訪ね、友好的な関係性を築いている。戦後ドイツの復興を成し遂げたヒトラーを手放しで賞賛したのだ。

第6章「ヒトラーの攻勢とルーズベルト、チェンバレン、そしてチャーチル」

戦後、アメリカ企業はドイツ経済復興への援助に勤しんでいたが、その急激な発展かつ全体主義的な経済体制に不安を感じ、次第に撤退して行った。ナチスヒトラーは、今でこそ悪人として捉えられているが、ユダヤ人迫害が始まる1938年までで見ると、ドイツ史上最高のリーダーとして認識されていたことを忘れてはならない。

日本はアメリカとの平和的な関係を結ぶことに執着していた。もともと、防共としてソビエトの進行を極東で防ぐ役割を担っていたが、アメリカのソビエトの国家承認と、FDRが聞く耳を立てないことにより、一方的に日本への外交を厳しくしていく流れになった。FDRの「隔離演説」にもその一端が感じ取れる。日独伊の3国を名指しはしなかったが伝染病患者と例え、アメリカはその脅威と戦わないといけないという姿勢を伝えた。しかし、世論は非干渉主義を貫いており、この隔離演説自体を批判する論調が多かった。これを受けてFDRは攻撃的な発言を控えることをしたが、その思惑は変わらないままであった。

第7章「ヒトラーのギャンブル」

ヒトラーは東欧進行の為にも、ベルサイユ条約によって分離されたオーストリアやチェコ・スロバキアに住むドイツ系住民の取り込み、またその地域の併合を臨んでいた。アメリカのフーバー元大統領がヒトラーの元を訪れた際も、その思惑は読み取れたという。かくして、ヒトラーはまずオーストリア進行を決めたのだが、予想に反して全く抵抗がなかった。オーストラリアはドイツの経済復興を賞賛しており、またベルサイユ体制にも不満を残していたので、熱い歓迎をもたらした。次にチェコ・スロバキアだが、ここはミュンヘン協定によりドイツに併合された。時のチェンバレン首相がなんとか戦争に発展しないように努めた外交政策の結果であった。当時のヨーロッパでは誰も戦争を望んでおらず、その外交政策を世論は讃えた。反ヒトラーを促すチャーチルだけは反対したが。両国を手に入れたヒトラーはポーランドとの交渉を始める。ミュンヘン協定により、軍事的介入を制限されているヒトラーはポーランドに対して、かなり健全な提案をした。しかし当時の外相ベックはこれに頑なに反対した。ポーランドは変な自信をつけてしまっていたのだ。ここでもし、宥和的な態度でヒトラーと交渉を進めていたら第二次世界大戦は起きず、ポーランドも共産化することはなかったと言われている。

チェコ・スロバキアは自壊した。しかしそれはヒトラーによるものではなく、人工的な国家で多くの民族を抱えた国家そのものの問題が爆発しただけであった。しかしこの事態がチェンバレン首相をパニックに陥らせた。チェンバレン外交最大の愚行とされる、「ポーランド独立保証」を宣言したのである。それまでの対独宥和政策から一夜にして180度転換したその宣言にヒトラーは胸を痛めた。この発表には様々な憶測が立っているが、その一つであるFDRの思惑が反映されていたことは確実であろう。反ナチスを旨にチャーチルの元へと集まる勢力もこの頃から拡大して行った。すでにチェンバレンの力ではどうしようも出来ないほどに世界は動き始めていたのだ。

ポーランドの頑なな姿勢は変わらず、英仏も積極的に平和外交の努めを果たさなかった。ソ連は英仏とも同盟交渉をしていたが折り合わず、逆にヒトラーと同盟を結んだ。独ソ不可侵条約である。これによりポーランドへの強硬政策が可能となった。ついに第二次世界大戦への火蓋は切られたのだった。


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第一次世界大戦の勃発から第二次世界大戦の勃発までを、時代の流れとともに書き上げた中身の濃い本でした。この辺の話はとても好きなので、楽しく読めました。

個人的には、イギリスがどの時代もアメリカとヨーロッパ全体の中間管理職みたいな役割を果たしている点が面白かった。

歴史を学ぶ上で、非常に参考になる一冊でした。


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