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関門海峡から考える古代日本の成立過程

関門海峡。
本州と九州を隔てる海峡である。
実際にその岸に立ってみると、両岸の距離は大きな川幅位でしかなく、九州側の岸から、本州をはっきり眺めることができる。

船が海外との唯一の交通手段だった時代、この海峡の先に続く瀬戸内海は、大陸と奈良、京都を繋ぐ重要な水路であった。瀬戸内海は、太平洋や日本海などの外洋と異なり、島で囲まれているために、穏やかで、安全な船の航行に適している。

しかし、瀬戸内海をそのような交通路として機能させるためには、この狭い海峡を抜けなければならないが、この狭まった海峡では、人為的にその通行は妨げることができる。そのため、この地域の人々と敵対関係であれば、この海峡を簡単に通り抜けることはできなくなってしまう。

例えば、平家は、京都から瀬戸内海を渡って逃亡したが、この海峡を抜けられず、この海峡に面する壇ノ浦で滅亡した。

瀬戸内海を大陸へ続く水路として通行するには、海峡の両岸の地域との関係性が重要である。

関門海峡にかかる関門橋(対岸付近が壇ノ浦)

現在、そんな心配もなく、多くの船がこの海峡を行き来している。しかし、日本が現在のような国としての体裁を整えていなかった時代もあった。
もし、奈良と関門海峡が、現在のように一つの同じ国の支配下に統一されていなければ、瀬戸内海も大陸に通じる水路として機能しづらくなる。
この海峡の自由な通行し、瀬戸内海を水路として機能させるには、少なくともこの海峡を支配する勢力と友好的な関係を築くか、圧倒的な軍事力によりこの海峡を制圧しなければならない。

そして、この地理的特徴は、この国が成立する過程にも大きく関与していたと考えられる。
なぜなら、奈良京都を含む畿内が、都として栄えてきた最も大きな要因は、大陸に続く瀬戸内海という水路の終着点に位置しているという地理的条件だからだ。日本列島における他の地域より、大陸との交通をより円滑に行い、最先端の知識や技術を取り入れることで、、都として繁栄できた。

しかし、先に述べた通り、この関門海峡の存在を踏まえると、瀬戸内海に水路としての条件が無条件に整っているわけではない。
あくまで、関門海峡を、自由に通行できることにより、瀬戸内海が水路として機能する。そして、その終着点という奈良の地理的特性が、見出される。
つまり、この海峡の自由な通行が、奈良が都として成立する為の条件なのだ。

古墳時代に畿内で、大和政権が成立することは、日本史的な事実とみなされている。
ただし、九州説も畿内説に二分される邪馬台国論争に見られるように、それ以前の時代については、まだ明確な結論が出ていない。

とは言え、弥生時代以降、大陸からの文化が伝来してきたことを考えれば、九州と比較して、大陸から離れた本州に国の中心があったとは考えられない。
まず大陸に近い九州で大陸の最も進んだ文化が受け入れられ、その文化を生かした国の中心が存在したはずである。
その後、何らかの過程を経て、九州にあった国の中心が畿内へと移動する。
そこで、瀬戸内海と関門海峡についての検討を踏まえると、九州と畿内とが統一されていなかった時代から、畿内に都が成立する過程について、以下の3つの仮説が想定されうる。

仮説1:九州勢力の拡大による遷都
仮説2:九州勢力と友好勢力の拡大とその後の九州侵略
仮説3:九州勢力と敵対勢力の九州と畿内の侵略

仮説1:
当初から関門海峡を支配する勢力が、この海峡を自由に通行し、瀬戸内海を通じて東に拡大したのち畿内にたどり着き、畿内を勢力下に収めた。
そののち、何らかの要因で畿内への大幅な移住が必要となり、その後畿内に遷都した。

仮説2:
関門海峡を支配下に置く九州勢力とは別の勢力が畿内に進出したと考える場合、友好勢力による拡大か、敵対的な侵略か、仮説は二つに分かれる。前者の仮説に立った場合に考えられるのが、仮説2である。
この仮説では、九州とは異なる勢力が、畿内にあったと仮定する。
この時期の国力の拡大は、大陸からの最新の文化の需要が必須である。
九州と比較して、畿内は、地理的に大陸から離れ、大陸から文化の需要という点では、不利な環境に置かれているため、畿内が大陸からの文化の需要が一定の段階まで進むまでは、九州勢力を傘下に収めるだけの国力を維持できたとは考えられない。
畿内の勢力は、継続的に九州勢力と友好的な関係を維持し、瀬戸内海を通して、大陸との交流を自由に行うことにより、大陸の文化を吸収し、その後、九州と近畿が同程度の文化を大陸から吸収した。
一定の段階まで、大陸からの文化の需要がすすんだことにより、国力の差を生み出す要因は、大陸との地理的関係から別の要因に移り変わった。
その結果、畿内勢力が、いつしか九州勢力を国力で凌駕するに至った。
その後、畿内の勢力は九州勢力との友好関係を破棄し、九州勢力を自身の傘下に組み込み、統一した国の都を畿内に定めた。
しかし、この仮説は、ウサギと亀の童話のように、戦略に欠けた九州勢力が前提になる。魏志倭人伝には、「倭国大乱」について記されている。「大乱」を経験した勢力が、童話に登場するウサギのような昼寝を行っていたのか、多少の疑問が残る。

仮説3:
この仮説は、九州勢力と敵対する別の勢力が、九州に侵攻したという仮定に立つ。
九州勢力と敵対する勢力が、外部から侵入し侵入し、九州勢力と関門海峡を制圧したのちに、畿内に都を設置したことにより、直接大陸文化を取り入れることができたとする。
この仮説では、外部から畿内に侵入した勢力は、それまで九州にあった勢力とは比べ物にならない、圧倒的に大きな国力を持っていることが前提となる。そうでなければ、当時の脆弱な移動手段で長距離を移動し、かつその場所に根付いている勢力を制圧することはできないからである。
そのため、この勢力は、九州よりさらに文化の需要が進んでいた大陸の中心部により近い地域にあったはずである。
その勢力が、他の勢力からの侵略を受けるなどの政情変化により、当初支配していた地域で存続することができなくなり、その時代未開地であった、日本列島に移動、侵略し、その時代未開拓であった畿内にその都を定めたのである。

これまで、歴史は、残された文書により解読されてきた。
日本について記録されている最古の文書は、邪馬台国について記載された「魏志倭人伝」であり、国内最古の文書は、日本書紀や古事記である。
よって、それらの文書に記載がない時代は、「先史時代」として、歴史の対象外であった。
しかし、近年考古学や分子生物学の発展より、文書に記録されていない歴史を新たに解読するための素材を提供しつつある。
また、それに加えて、地理や自然環境などの物理条件から、科学的に歴史を解読しようとする取り組みも、広がり始めている。

ここでは、関門海峡という地理的条件から、日本という国の成立過程を分析した。
もちろん、さらに他の科学的な条件を、検討に加えることにより、ここに記載した仮説の解像度を上げていくことは可能である。

九州側 和布刈神社よりみた関門海峡

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