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#自己紹介をゲームで語る

どんな形であれ、私にとって自己紹介は難解で苦痛なものに感じてしまう。自分自身の経験や成長が薄っぺらい物に感じてしまうこと、悪戯に積み重ねて戻ることの出来ない過去に向き合わねばならないこと、そしてそういったことを怠り瞬瞬必生の精神で生きてきた自分には自己肯定感を積み上げることが出来ていないこと等の現実に直面するからだ。
とはいえ、今は気持ちが前向きなのでやってみようと思う。

ゲームに関する記憶で一番古い物は、なんとPCゲームだ。建築ゼネコンの社員として働いていた父は、早い時期からマイコンを手に入れ、仕事に活用していた。家にある大きく厚みのあるディスプレイと大きく重たいキーボードを目の前にして、私は父が購入したゲームを遊んでいた。当時はNECのPC-9801、振り返っても貴重な経験をさせてもらったとしか言いようがない。ジャンプアクションによって敵を避けながら謎解きによって城に囚われた姫を救出する「ザ・キャッスル」「ザ・キャッスル エクセレント」やテキストアドベンチャーゲームの黎明期にあった「シャーウッド・フォレスト」、なんとMOディスク4枚を使ってプレイが必要な「信長の野望」を遊んでいたことを思い出す。このうちクリアに至ったのは「信長の野望」のみだった。「キャッスル」はアクションが難しく「シャーウッド・フォレスト」はコマンドが選択式ではなく入力方式だったため、必要なコマンドを入力することが出来ずに詰んだ記憶がある。ちなみに「信長の野望」では紀伊国の雑賀衆を使ってクリア。鉄砲強し。
その後父はPCゲームを買うことはなかったが、『I/O』等を定期購入するほどのPCオタクであった為、PCデスク周りは常に充実しており、小学校中学年の頃には「ポケコン」(ポケモンではない)を買ってもらった記憶がある。『I/O』に投稿されたミニゲームを自分でポケコンにプログラムして遊んでいた記憶がある。そのまま行けば私もPCオタクへの道まっしぐらだっただろうが、なかなかどうしてそこまで至らなかった。熱中はするが、一度離れてしまうと取り組めなくなる飽き性は小さいころから変わらないようだ。

コンシューマゲームとの出会いは、住んでいたアパートの端に住んでいた少し年上のお兄さん家にあったファミコンだ。遊ばせてもらったのは「キン肉マン マッスルタッグマッチ」や「熱血高校ドッジボール部」だったはず。コマンド入力が出来ずに、いつもブロッケンJr.で毒霧ハメをして怒られていたし、友人が操作するバッファローマンには全く歯が立たなかった。ドッジボールは必殺シュートがなかなか出来ずにいつもぼっこぼこ。

ゲームの話に夢中で自分のことを振り返ることを忘れていた。大阪出身の両親のもとに生まれた自分だが、父は職業柄転勤が多く、家族も引っ越しをすることが度々あった。幼少期は横浜市のはずれにある長津田で育つ。二つ離れた弟と4人家族で過ごすが、家では弟とぬいぐるみ遊び、外では近所の女の子と一緒に縄跳びやかくれんぼを繰り返してた記憶。交友関係は広いわけではなく、いつも同じ子と遊んでいたし、幼稚園に通うためのバスに乗るのをいつも嫌がって泣き出した挙句、母親に自転車で送り迎えをずっとしてもらっていた。ちなみにその時期に近所に引っ越してきた「ともこちゃん」が好きでいつも一緒に遊んでいたのだが、これ以降私の人生は「転校生」「後から仲間の輪に加わった人」に恋心を繰り返し抱くことになるのは、また別の話。

初めて自分の家で遊んだゲーム機はゲームボーイだった。据え置き機だとスーパーファミコン。ちなみにスーファミは購入したのではなく、地元の祭りのくじで引き当てたというまさに運命の出会い。父の都合で南伊豆にある下田という町に引っ越して間もない頃だった。

転勤族の父についてゆく形で小学生の途中で引っ越しとなったのだが、一度作り上げた友人関係をまたゼロから作り直すのは、当時の自分にとっては大変だったのかもしれない。学校で話したり放課後に一緒に遊んでくれる友人はいたものの、基本的には誘いが無い限りはまっすぐ家に帰って宿題とゲームとテレビを見て過ごす日の方が多かったかもしれない。とはいえ、ゲーム漬けの人生というほどでもなく、夏になれば家から徒歩10分のところにある海で泳いだし、学校の友達と一緒に酒瓶コレクションに勤しんだりもした。それでも友人との思い出があまり色濃く残らなかったのは、小学校中学年の時にいじめにあったせいだと思う。学校を休んだりはしなかったけれども、その時の気持ちにうまく折り合いをつけられたかどうかは、今でもわからない。学年が変わってクラス替えになって、自然といじめは消滅したけれど、あの時のモヤモヤしたわだかまりは、まだ心の何処かに重く残っている。

ゲームを遊ぶときは一人プレイか、弟と一緒に遊べるもの。協力プレイが出来る「がんばれゴエモン」シリーズはスーファミで発表されたものはすべて一緒に遊んだ。人生を通じて「お笑い」は好きだが、その原点はゴエモンにあるのかもしれない。しっかりした手ごたえの横スクロールアクションと、それに伴うベッタベタな笑いは今振り返っても面白い。一人で遊ぶものといえばRPGが挙げられるが、私はいわゆる「王道」よりもちょっとクセのあるゲームがお気に入りで、学校の友人がFFかドラクエかと話している中、一人我が道を往くが如く「サガ」シリーズやメタルマックス2に熱をあげていた。特にサガシリーズはお気に入りだが、バトルが難しいこともあり、ちゃんとクリアまで至ったのは成人して遊び直してからのことが多かった。飽き性で壁にぶつかると投げ出してしまうところも、やはり変わらないらしい。

子どもの頃にゲームが趣味になると「どうやって新しいゲームを手に入れるか?」という問題がある。それぞれの家庭ごとに解決法があると思うが、私の家はお小遣いがなく「学校のテストの成績が良ければ、好きなものを買ってもらえる」というシステムだった。両親(というか母親)は子どもの教育にそれなりに熱心だったのだと思う。幼い頃から私は幼児教育教室に通ったり、ベネッセの通信教育を申し込んだり、近所の自然体験教室に通わせたりと色々なことをさせてもらっていた。勉強してテストでいい成績を収めると嬉しいし、新しいゲームも買ってもらえるので、その当時は学校、帰宅して宿題・ベネッセ、テレビとゲーム、そんな毎日の繰り返しだったと思う。並行してスイミングスクールや個人の英語塾にも通ったりしたこともあり、意外と「自由な時間」は少なかったのかもしれない。歳を重ねた今も、自由な時間を効率的に過ごすことは苦手と感じている。

あの頃は将来どうなりたいとか、そんなことは考えてなかったし、今でも自分の人生における中長期的な目標を立てるのは苦手だ。毎日何かしら「やりたいこと」「やらなきゃいけないこと」が目の前に転がっていて、それを一つずつ終わらせないといけないという感覚がいまもずっと続いている。

ゲームの話に戻る。RPG黄金期の始まりであるスーパーファミコンに触れた世代のため、必然的にRPGは好きになったし、スーパーファミコンを発売してくれた任天堂が私にとっての「ゲーム」だった。当時アーケードゲームもあったが、私はそれに出会うのは近所の駄菓子屋にあるストリートファイターⅡや餓狼伝説やサムライスピリッツ等の対戦格闘ゲームであり、お小遣いのない私には無縁の話であった。たまに友達にせっつかれて1ゲームだけやってみたがすぐに負けてゲームが終了する。結局ストⅡをしっかりやったのはスーファミに移植されてからだった。

ゲームを遊んでいたりアニメを見て居たりすると「オタク」と呼ばれるようになったのは、いつからなんだろう。少なくとも私が小さい頃にはそんなことは言われなかった気がする。魔神英雄伝ワタルやグランゾートや少年アシベやキテレツ大百科やドラえもんや悪魔くんやSDガンダムシリーズを見てた頃の自分はオタクというよりテレビっ子と言われることの方が多かった気がする。まぁ、ひらけ!ポンキッキからのポンキッキーズやウゴウゴルーガやにこにこぷんや忍たま乱太郎やモンタナジョーンズとか節操なく色々なコンテンツを見ていれば、ジャンルのオタクと言われることもなかったのかもしれない。
「オタク」という言葉が自分の周りで大きくなり始めたのは、エヴァンゲリオンが放送されていた前後からかなぁと思う。私は世代的にはど真ん中(放映中に丁度シンジ君と同年代だった)はずなのに、華麗にスルー。スラムダンクもアニメとジャンプ連載で盛り上がっていたのに、それもスルー。当時の私はイチローや松井秀喜の活躍を見て軽率に野球をやりたくなって、運動神経ゼロの癖に野球部に入り、中2の頃にはその野球部の部員が4人だけになり休部してしまうという引きの弱さを見せていた。ちなみに休部の間に自分は素振りをせずパワプロにはまり、生徒会の書記などを務めるなんちゃって文科系みたいな生活をしていた。ちなみに好きな選手は阪神タイガースの和田豊選手。

スーパーファミコンで遊びながら、町の書店でゲーム系の雑誌を買ったり、大技林などを読み込んだりして育っているうちに、プレイステーションやセガサターンなどの次世代機の時代がいつの間にかやってきた。「ゲーム=任天堂」という感覚だった自分にとって、それらのゲームは特に興味をそそられるものではなかった。友人の家でバーチャファイターを遊ばせてもらった時も、カクカクポリゴンをカッコいいとは思えなかったし、慣れないコントローラーで出来もしない格ゲーのコマンド入力に挑むものだから、全然楽しくなかったことを覚えている。「カクカクのポリゴンより、FF6の超絶技巧ドット絵の方が美しいよなぁ」と感じているし、その感覚は自分の何処かにまだ生きている。ちなみに、自宅に初めて来た3Dアクションゲームは、ウィンドウズ95が入ったPCを購入した時についてきたバーチャロン。

NINTENDO 64 が我が家に来た日のことは、今でもはっきりと思い出せる。家族で一緒に家に持ち帰り、居間の真ん中で開封し、説明書を読みながら丁寧に配線等を整えて「スーパーマリオ64」を起動して、ピーチ城に入らずにひたすらスライディングや三段跳びや側転などのアクションを繰り返しているだけで楽しかったあの衝撃。大きめのサンディースティックを全方向にぐるぐる回して遊びつくした。その後も我が家ではずっと64で遊び続けていたが、遊び相手はやはり弟だったので、弟と2人対戦でリモコン爆弾限定や黄金銃のみゴールデンアイをやり尽くしてゲラゲラ笑っていたし、「ブラストドーザー」でひたすら建物を壊しつくすことを楽しんでいた。「ウェーブレース64」の美しさに見とれながらトリックを決めていたし、「F-ZERO X」でゴマー&シオーを操りながら最速の世界を楽しんでいた。「カスタムロボ」に熱中したし、拡張パックセットのムジュラの仮面を遊び、振動パック付きの「スターフォックス64」を毎日のように全クリスコアアタックをしていた。「ニンテンドウオールスター!大乱闘スマッシュブラザーズ」は私がネス、弟がルイージを持ちキャラにして2人でひたすら戦っていた。64DREAMや電撃NINTENDO64を購読してまだ見ぬゲームを楽しみにしながら、今手元にあるゲームをひたすら遊んでいたのでゲームには困らなかった。余談だが弟はこの頃のNINTENDOスペースワールドに足を運び、開発中のマザー3(64DD版)を実機プレイして「これはヤバい、ゲームとして全然できてない」とリアルな不安を伝えてきてくれた。弟の予感は的中したことになる。

高校受験が近づくと再び父の転勤話が出てくる。それに合わせて県外受験をし、家族で横浜に戻ることに。横浜の高校に通うことになった私は、中学の時にやっていたという単純な理由で高校では硬式野球部に入ることになるが、これが(公立高校にしては)ガッツリと真面目にやる部活動だったため3年間まるまる部活動中心の高校生活となる。運動神経ゼロなのにしごかれ続けて碌に試合にも出れない万年補欠組だったが、それでも休まずに部活動に出続けるだけのガッツがあった。声出しばかりしていたので必然的に声が大きくなり、歌を歌うことが好きになった。当時は「ゆず」や「19」がメジャーデビューした頃であり、クラスメイトが路上で弾き語りをやっているのを見に行ったついでに一緒に路上で歌ったりもした。忙しかったけど、自由だった。毎日学校と部活で忙しくてゲームをガッツリやることは以前ほどなかったが、その中でもゲームキューブの「ガチャフォース」やゲームボーイアドバンスの「逆転裁判」シリーズはしっかり遊んでいた。一番熱をいれて遊んでいたのはパワプロだった。サクセスに挑んではキャラを作ることを飽きもせず遊びつくしていた。

高校時代は部活と学校行事や友人と遊び惚けていたので、一年の大学浪人を経て都内の大学へ進学。ちょうどこの頃にDSやWiiが発売されているのだが、大学生あるあるという感じで大学生活とアルバイトに明け暮れていてゲームを遊ぶ暇がなかったのが正直なところ。この頃はゲームを遊ぶことよりもとにかく目の前の現実を走り切ることで精いっぱいだったと思う。日本文学科に入り、昼は講義、夕方はサークルか渋谷の散策や読書、それ以外は友人と飲みに行くかアルバイト……という感じ。長期休暇の時もバイトを休まずやっていたので、自由ながらも一日一日を生きていた感じだった。特にこの頃は音楽鑑賞や映画鑑賞にハマっていたので、都内各所のミニシアターで見たこともない単館の洋画を見て云々唸ったり、バイトの給料が入るたびにTSUTAYAにダッシュしてCDをまとめて借りてiPodに入れて……何もしていないようで毎日何かを追いかけていた日々だった。就職先のことなど考えず、あの頃は音楽雑誌のライターに憧れてひたすらCDショップに通って店内配布されている無料冊子に載っているコラムを読みつくして「俺ならこうやって書く」とノートに駄文を書き貯めていた。衝動的にタワレコのバイトに応募したこともある。(諸々合ってそれは叶わなかった)結果的に、その時に聞いた音楽は、今でも自分の背中を押してくれるし、駄文を書き貯めた経験が、こうしてネットに長文記事を書くことに繋がっているのだから、楽しめているほうだとは思う。

自分は将来何になるんだろう、と考えることがずっとできなかった。新しい自分になって知らないところに旅立つことよりも、今ここでのんびりとこのまま過ごせたらいいのに、とずっと考えてきていたと思う。学校や、習い事や、外で遊ぶことや、アルバイトや、散策や、旅行、どれを経験しても最後に家に帰ることがあるから安心して外に行けたのだと思う。その時のコミュニティで友人はいるし、良好な関係を築けていたと思ってはいるが、どこに行っても「この友人は、自分よりももっと親しくしている他人がいる」と感じてしまうと、どこか一歩引いてしまう癖が抜けなかったのはなぜだろう。今とは違う所へ行くこと、変わってゆくことがずっと怖かった。

幼少期から学校のペーパーテストで優秀な成績をおさめていたこともあり、ぼんやりと「自分は学校の先生になるんだ」という気持ちがずっとあった。特に高校時代は周りの友人たちとたのしく過ごせたこともあり、「自分は高校教員になって、この学校の先生となってこの学校に恩返しをしたい」という気持ちがあった。大学時代に教員養成コースを受講して通学し続けた。教員になろうという思いが強くなったのは、3年次の終わりに他の友人たちに合わせて就職活動をしようと複数の企業にエントリーし、就職説明会に参加し、採用面接を繰り返すたびに「自分がいるべき場所はここじゃない」と強く感じていたからだ。ペーパーテストは情報を集め必要な知識を身に付ければ回答できる、しかし「なんでこの企業に就職したいのか」「将来どのような目標があるのか」等に対して私は回答が思いつかなかった。私はずっと「穏やかに毎日を過ごしたい」と願っているだけで、労働をしながらどのように人生を生きてゆくのかについて考えることが出来なかった。やりたいことや実現したい夢があるわけではなかった、生きていきたかった。もう少し詳しく言えば「死にたくなかった」という気持ちで生き続けていた。

大学4年の春に調子を崩し、年度初めに行う教職課程に必要な講義の申し込みに失敗してしまう。就職活動と卒論製作を並行して行うが、やはり就職活動はうまくいかないため、卒業後改めて必要な講義を科目履修生として受講しながらコンビニアルバイト等のフリーターとして過ごす。翌年からは県内の高校に非常勤職員として勤めながらアルバイトを継続。
非常勤の先生はざっくり言うと「特定の授業だけ担当する先生」と思ってほしい。制度的には授業だけやって成績つければ仕事的には問題なし。だが教員志望の身として学校に所属することで生徒と交流し、同僚の教員たちと親交をもち授業以外の学校での「先生の姿」を学び育ってゆく……というのが一般的。私もその気持ちで勤めていた。
結論から言えば、私は心身を壊してしまうことになる。周りの友人たちは皆それぞれ自分の人生を選び社会人として働いてるのに、定職に就かず実家に留まり続けていること、自分なりに学習し用意した授業がうまくいかない事、生徒たちと交流しつつもどこか彼らの期待に応えられないことへの不甲斐なさ、周りの先生たちへの交流の難しさや、自分が苦しんでいる時にうまくヘルプが出せなかったこと、毎年採用試験を受けて、ペーパーテストは合格するが、その後の二次試験(当時は模擬授業と面接)で落とされ続けたこと。教員採用へのトライは3年間続けたが、その3年目が終わるころに心が折れた。
そこから就職活動をする、という選択肢もあったのだが、学生時代の就職活動への恐怖が抜けきれないため、コンビニのアルバイト(今度はほぼフルタイム)を続けながら通信教育課程で司書資格の取得にチャレンジする。が、これまた挫折。もう勉強したくなかった。家から出る元気もなくなった。自然とそれまでの友人とは疎遠になり、部屋の中で頭を打って流血したのをきっかけに親が「療養しなさい」と判断。心療内科に通いながら自分の部屋で休み続けることになる。この時から心療内科への通院と寛解を繰り返す人生になっている。けれども、自分の苦しみを少しでも解決してくれる場所があることは、幸いだと思って通い続けている。

仕事も出来ない、勉強もできない、あらゆる元気がない自分が唯一出来たことがゲームだった。ちょうどニンテンドーDSで「メタルマックス3」や「サガ2 秘宝伝説 GODDES OF DESTINY」が発売された頃。サガ2限定版でDS本体を手に入れて、自分がかつて遊んでいたゲームタイトルの新作をのんびり遊んでいた。どんな自分でもゲームは変わらず寄り添ってくれるのがありがたかった。勿論それは現実からの一時的な逃避にすぎない。けれども、小さいころからゲームを遊んでいた自分にとって、ゲームをせずひたすらに現実や自分の人生に向き合い続けることは難しすぎた。残念なことかもしれないが、他の人には当たり前のことが、自分にとっては難しいのは仕方がないのだと気づくきっかけになった。

ゲームをする元気はあったが、仕事や自分の人生に向き合うまでの元気がなかった頃に出会ったゲームが「ゼノブレイド」だった。この為に赤色のWiiを買って遊ぶことに。様々な哀しい運命に振り回されながらも、それでも未来に向かって歩き続けるシュルク達の冒険と広大な巨神の躯をそのままフィールドにした世界に度肝を抜かれながら夢中になって世界を駆け巡っていた。まだ見ぬあそこには何があるんだろう、そして彼らの選んだ未来はどこへ向かうのだろう、などゲームの面白さだけでなく、物語、世界観、フィールドの充実さなどすべてに魅了されていた。そしてそのゲームで繰り返し提示されていた「未来をあきらめないこと」に背中を押されて、自分も再び人生に戻ろうと元気が湧いてきた。私の心のゲームです、ゼノブレイドは。

ゲームに元気をもらい、もう少しだけ頑張ってみようと思った。家族の助けもあり、就職支援を利用して介護の道へ。久しぶりに働くことはとても怖かったが、周りの人の温かいサポートでなんとか社会に復帰。生活が落ち着いたこともあり、WiiのソフトやDSのソフトで遊び、WiiUを買い、そしてNintendo Switchも購入して仕事とゲームと生活を過ごしてゆくことが出来るようになった。ゲーム音楽演奏会等のイベントにも出かけるようになった。WiiUで「ゼノブレイドクロス」「幻影異聞録♯FE」「The Wonderful 101」「ピクミン3」「Splatoon」等を遊べたことは本当に嬉しかった。

現在は同じ介護業界だが、違う職場で働いている。一人暮らしも始めて、またさらに新しいチャレンジが出来ている。介護の仕事を選んだのは、職探しに困らない事、そして私の心にある「誰かの/社会の為に働きたい」という気持ちを形にできるのが介護だと感じたからだ。どんな人生を送っても、皆平等に歳をとり、老いが近づいてゆく。また、若くして重い病気になり介護が必要になる人も少なくない。私たちの人生に、社会にとって必要な仕事だと感じたから、この仕事を選んでいる。
心療内科への通院は続いているし、身体や心の調子はアップダウンが激しく辛いことも多いが、なんとかその日その時を大切に生きているつもりではある。人生を諦めずに生きてゆきたい。

ここしばらくはゲームに触れる時間が少なくなっているのが正直なところだ。
理由は幾つかある。一つ目は、自分の生活や人生に必要なことを優先して行うと、必然的にゲームに費やせるまとまった時間が少なくなってしまうこと。介護の勉強を始め、日々の家事や買い物、身体と心の調子を整えるヨガや通院など必要なことは多い。ゲームの世界を楽しむ以前に、現実の自分の心身が健康でいなければ、十分にゲームを楽しむことも難しいと考えているし、健康は寝て食べることを繰り返しているだけでは得難いものだと感じている。
二つ目は、新型コロナウィルスの感染爆発に伴い。自分の業務が膨大になっていること。同僚が感染者/濃厚接触者になり代わりに出勤する、別のエリアで感染者/濃厚接触者が発生しそこのエリアのヘルプに行く、人が足りない分長時間労働で繋ぐ等、コロナウィルスの影響は介護業界では大きい。私自身も感染したくないのでその為の必要なことを諸々行わなければならず、あらゆる自分のリソースを奪われている。ゲームできる時間があれば休みたいというのが本音だ。
三つ目は、ゲームをのんびりと楽しんで自分だけ楽しく生きていられる人生でいいやと思えなくなったから。施設介護、在宅介護の両方の現場で仕事をしてきたが、自分よりも年長の人たちの姿を見て、必然的に自分の人生について考えることが多くなった。介護サービスで関わらせていただいているサービス利用者のおじいちゃんおばあちゃんたちは、未来の私の姿かもしれないと強く感じた。生活に寄り添い介護サービスをすると、利用者の人となり、そしてその人が歩んできた人生について考える。私たちも遠くない将来に介護サービスを利用する(はず)だし、その時に自分がどれほどの介護サービスをどのような形で利用するのかについても考える。そうした介護サービスをはじめ、介護や医療など社会保険制度について考えると、現在の制度はとても弱く、制度はそれらが必要な人たちを支えるには非常に弱く、そして社会保障に携わって働く人たちの待遇も決していいとは思えない。
それらの制度を作り運営してゆく行政の対応や、思想、価値観や言動諸々に対して「なんでこの国に生活する人たちの幸せのために政府は働かないのか」と疑問をもち、憤りを覚えるようになっていった。

ゲームを取り巻く環境に疑問を感じたのは「幻影異聞録♯FE Encore」が発表された頃だ。大好きなゲームがNintendo Switch に移植されることが発表されてとても嬉しかったのだが、移植されるのが「海外版」を基に製作されたものであり、WiiU版に収録されていた「水着」「温泉」のコンテンツが削除されていたり、作中の表現が幾つか変更されていることに大きく怒っていたオタクの姿を見て、「なんでこの人たちはそんなに水着やエロにこだわり続けるのだろうか」と思ったし、その時自分の気持ちを考えたら「ゲーム内にちりばめられている露骨なエロ要素」に対して嫌悪感があること、そういった要素が丁寧に配慮されていることに安心したのだった。それ以降、オタクが抱えるエロへの執着心や、公共の意識の低さ、他者へ躊躇なく加害する暴力性などが様々な点で気になるようになった。「私はそんなキモオタになりたくない、自分の好きなコンテンツに向き合って、それが社会に受け入れられるようであってほしい」「そういったことをせずに自分の欲望で他者に加害するような存在はコンテンツにとっても迷惑だからやめてほしい」と強く思うようになった。その頃よりも、「オタク」の加害性等はますます悪化していると感じているし、そういった存在とは真っ向から反対してゆきたいと思っている。私の大好きなゲームと社会のために。

「尊敬する人は誰ですか」と問われたら、私は真っ先に「岩田聡さん」と答える。かつて任天堂の社長を務め、ゲームを通して多くの人をハッピーにし続けた人だった。私が岩田さんを尊敬しているところは大きく二つある。一つは、他人をハッピーにするために常に研鑽を欠かさず、時には自ら手と頭を動かし粉骨砕身して他者のハッピーの為に行動していたこと。二つ目は彼の信条が「ボトルネックを潰す」ものだったこと。
現実はどうだろう。学習もせず保守的なパターナリズムを保持してハラスメントを続ける人たちが権力を握り、立場の弱い人から搾取し罵倒している。「弱い立場」にいるはずの人が、さらに弱い立場の人たちを見つけて、権力者の言動を笠に着て叩き続ける。そういった構図が、政治社会の場でも露骨に出ているし、「ひろゆき」「ホリエモン」「橋下徹」「キンコン西野」のような他者を欺いて自身の富を得る人たちが大手を振るっている。そんな世の中はおかしいと思うし、実際私もそのような社会に苦しめられていることがある。

これまでだったら「そんな社会の面倒なことに向き合わないで、気晴らしにゲームをして楽しく毎日を過ごせたらいい」という考えに同調していただろう。けれど、もうそんな風には考えられない。実際に私たち自身が傷つけられて貧しい人生を送らされているし、それを今の高齢者や若者にもずっと苦しい思いで生きなければいけない社会であってほしくないと強く思うようになったからだ。そして私たちは主権を持つ有権者であるので、こういった苦しい現実を変える力を持っていると感じているからだ。

これまでゲームを遊ぶ中、ゲームの物語の中で厳しい運命に抗い自らの道を切り拓いてきた多くのキャラクターに私は出会ってきた。「ゼノブレイド」のシュルク、「ファイナルファンタジーXV」のノクティス、「ロマンシングサガ2」の皇帝たち、「ファイナルファンタジーVI」のセリスたち。「スーパーマリオシリーズ」のマリオたちはいつだって、困難を飛び越えて大切な人を助けるために頑張ってきた。あらゆる困難がそこにあっても、いろいろな形でそれを乗り越えてきたキャラクターたちに、ゲームを通して私は会ってきたし、彼らの姿に勇気づけられていたこともたくさんあった。
これからは、私がこの自分の人生のキャラクターとして、しっかり自分を大切にしてこの社会を人生を生きていきたいと思ったし、私たちが生きる社会がもっと良いものであってほしいと強く思うようになった。

この社会を生きるために、しっかり人生と社会に向き合って、様々な「ボトルネック」を解決するために一つずつ取り組んでいきたい。そのために必要なものは、ビデオゲームだけじゃない。「リングフィットアドベンチャー」「フィットボクシング2」で体調を整えつつ、ゲームを通して社会や正義を考えて、自分なりの形でゲームと社会と人生をしっかり歩んでいきたい、とそう思いながら日々を過ごしてゆきたいと思った。

たのしくゲームを遊べる毎日のために、学び考え遊び発言してゆこう。

たくさんのゲーム音楽演奏会に参加して、たくさんレポートを書いてゆく予定です。