【9月18日ワールドミッションレポート:🇸🇩スーダン「自殺志願者の戦争孤児の変えられた人生(1)」】
ベルナード・スワ牧師は、スーダン内戦中に難民として育った。16歳の誕生日まで、彼はずっと自殺することばかりを考えていた路上生活者の孤児だった。しかし神は、そんな彼に別の計画を持っておられたのだ。今日、彼はジュバのグレース・コミュニティ教会を率い、彼の愛する祖国を再建するために労を惜しまず宣教師たちを支援している。これはそのスワ牧師の人生の証である。
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私は7歳まで、南スーダンで家族と平和に暮らしていました。しかし1964年、全てが変わってしまったのです。 第一次スーダン内戦が私たちの村にも及びました。私たちは姉の家族とウガンダに逃げたのです。40km近くの距離を歩いて行かなければならなかったのですが、主要道路には兵士が配置されていたため、別の方法で国境に近づかなければならなかったのです。 ウガンダとの国境の川を渡る時、義理の兄は、激しい激流の中、私を頭の後ろに担ぎ、赤ん坊の姪を肩に乗せ、右手で姉を引っ張ったのです。 ようやく私たちはグルーの街にたどり着きました。一方、他の家族は国境近くのエレグの街に落ち着きました。 私たちは離ればなれに暮らさざるをえなかったのです。
当時、難民にはテントがありませんでした。だから自分たちで小屋を建てなければならなかったのです。ウガンダ当局は、木を切るためのマチェーテと土を掘るためのクワだけを支給しただけでした。それらを使って、私たちは草葺き屋根の泥で作った小屋を建てて住みました。それが私たちの難民生活でした。
私が12歳になった時、父の訃報が届きました。ウガンダ当局は、難民を国境近くに移動させるために私たちを強制的に移動させていました。父は重度の喘息があり、無理に移動させてはいけない体だったのですが、兵士たちはそんな父を無理やりトラックに押し込めました。その移動中のトラックの中で、父は発作を起こして帰らぬ人となったのです。
私が15歳の時、アディスアベバ和平協定が締結され、帰国の希望が見えてきました。それで母は、祖国に帰る時が来たと判断したのです。兄たちは、先にスーダンに戻って、私たち家族のために小屋を建ててくれていました。私の仕事は、母が帰国の移動手段を探している間、家族の所持品を見守ることでした。しかし状況は混沌としており、祖国への帰還は遅々として進まなかったのです。痺れを切らした母は、たとえ40km近くを歩いたとしても、一人で国境を越えて行くほうが早いと判断しました。しかし、そんな母を悲劇が襲ったのは、母がスーダンに入る国境の川を渡る時でした。母は、茂みに隠れていたならず者の兵士たちに捕まってしまったのです。彼らは母に酷い暴力を振るってレイプし、彼女が死んだものと思って放置して去っていったのです。ところが、私たちを襲った二重の悲劇は、私たちはそんな瀕死の母に気がつかないでいたことなのです。スーダンにいる兄弟と姉妹たちは、てっきり母は私と一緒にいるものと思っており、逆に私は、母は彼らと一緒にいるものと思っていたのです。そのため母の安否確認が遅れてしまいました。週間後、私たちは茂みの下に隠された母の焼身遺体を発見したのです。自責の念に駆られた私の精神は粉々に砕けてしまったのです。
「自殺志願者の戦争孤児の変えられた人生(2)」に続く。
(イスラム61.4%, プロテスタント14.8%, カトリック10.7%, 土着宗教11.1%, 他)
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