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事象と季節の色づき〜実践者が他の実践に触れるときのこと

今回は、会津若松にある、とうみょうこども園さんにお招きいただいて、
初日は保護者さんたちとの子育てワークショップ、
2日目は、職員さんたちと園内研修を一緒に行わせていただきました。

園内研修のテーマは、遊びの継続性、発展性というもの。
とうみょうこども園さんからの課題感としては、どうも遊びが続かず、発展も難しい…と。
それで、私なりにこれまでの実践の中から事例をいくつか拾って準備していった。

けれど実際にとうみょうこども園さんを見学させてもらって、
また職員の方達からもお話を聞いて、
自分が準備していったものはあんまり必要ないのではないか、と思った。

室内での遊びが続かない、ということだったが、それもそのはず、
園庭は起伏に富んでいて、木々が色づく葉や、木の実をたっぷりと落としてくれる。
自分の力量に見合ってチャレンジできる遊具もある。
築山もあり、潜り込める穴もある。
火も焚ける。

もちろん園庭環境の充実と、継続、発展的な遊びは矛盾しない。
けれども、そもそも事象がこれだけ豊かに移ろい、
子どもにさまざまに呼びかけ続ける場において、
では「コト」をさまざまに起こし続ける保育の意味とはなにか、を問い返してみてもいいのではないか、と思ったのだ。

保育の場はそこに流れている文脈や、背景、人によってさまざまな成り立ちをしている。
そこへなんらかの「質」という観点をもちこむ必要が仮にあるとするならば、
今回のように、あえてある一つの切り口(今回は遊びの継続、発展性)から、
保育の場を見ていく指標としての役割、それ以上でも以下でもない気があらためてした。

だから一つの保育の場を見るときに、
素人はさておき、
実践者として見るときに、
一人の子どもに触れていくときのように繊細に、精妙に、
触れていく必要があらためてした。

保育の中で「コト」がポリフォニックに起こっていくような実践は、
私自身も横浜に戻ってきてからだった。
愛知の里山の麓で保育をしていたときは、保育経験の多少の違いということもあるけれど、
やはりあまりその必要性を感じなかった。

これはどのような保育が「いちばんいい」とか、
どちらがより優れているとか、どちらだけでいいとか、そのような問いとは無縁である。
しかし保育の世界ではいつでも「極論主義」というものが謳歌されていて、
いつでも上のような問いで思考停止してしまう。

大事なことは、「ここで起こっていることはどのようなことなのだろう」と、
耳を澄ますこと。
この紅葉や銀杏の色づきと、りんごと、築山と、その横に座りこんでいる子どもたちと、小さな、しかし、おそらく2時間ほど磨かれたであろう泥団子のつるつると。
その全体まるごとを感じ取りながら、ここで起こっていることはどういうことなのかと、身体に染み込ませること、そこから言葉を紡ぐこと。
批評ということがあるとするならば、それ以外にはないという気がする。
よその人の暮らしに触れるということはそれ以外にはない気がした。


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