![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/6120449/rectangle_large_d4725875169372d467b3c16e1c410bb9.jpg?width=800)
サタデーナイトに寄せて〜保育の中の身体、あるいは保育者の腰痛について、あるいは間について
保育しながら文章書いたり、企画したり。
今回は4月21日(土)の企画、「サタデーナイト」に寄せて。
子どもに関わる人の対話と交流の場、サタデーナイト。
保育の研修というと、大勢で聞いたり踊ったり。
どうしても登壇する人と、お客さん。
という構図になりがち。
もう少し小さな輪で、保育について語り合う場がほしいなと思いたつ。
とはいえファシリとかできないし、
それなら酒呑んじゃえばいいか?
食べたり、呑んだりしながら、
語りたい人は語ればいいし、気まずく黙ってる人は黙ってればいいし、
そこらあたりは参加者まかせでやってみよう。と思いたち、
今回23回目。
(サタデーナイトの風景@りんごの木。混沌。ぐちゃぐちゃ。)
さて、
今回のゲストは大駱駝艦、田村一行さん。舞踏家である。
白塗りではないときはこんなひと。
《サタデーナイト 詳細&申込み》
http://www.kokuchpro.com/event/8838dd901ab95d60761b3f42ae6da673/
どうして子どもに関わる人の場で、舞踏家の方をゲストにお招きするのか。
「腰が痛い」と保育者は言う。
そう言っている声はすでにかすれている。
おまけに、土曜には熱出しそうだなという顔色。
でも「オニごっこしようよー」とモーレツに服の袖を引っぱられながら誘われている。
かがむ、注ぐ、抱く、走る、とまる、つまさきだつ、添い寝する、呼吸をあわせる…。
保育はとにかく身体、身体、身体。で関わる。
これが初等教育以上の教育の現場と決定的に異なるところであるが、
保育を語るときに身体はあまり語られない。
保育をとりまく言葉については語られるのに、
保育者の身体は置き去りになっている。
ひとつには、保育研究というものが大学などにいる研究者によって主導されている側面もあると思う。
大学の研究者が保育について考えるときは、机に向かっている。
そしてしーんとした静かな場である。
一方、保育の現場は、当然ながら机のうえで起こる出来事は少ない。
(お茶こぼれたとか、台ふきんで拭く、とかはあるな)
さらにそもそも、身体での関わりというものについて語ることはむずかしい。
たとえば「間(ま)」の話。
子どもたち一人ひとりとの間合い。
保育者はこの「間」を感じ取り、関わっていく。
言葉がけなんて言葉があるけれど、
言葉以前に、保育者はより多く「間」で関わる。
ある子がしゃがんでいる。
間。
その子の隣にしゃがみ込む。近すぎず、遠すぎない距離で。
間。
その子が見ているものはなんだろう、とその子の視線の先をのぞきこむ。
間。
まだしゃべらない。どちらも。
この間。
やがて言葉がどちらからか、この間に置かれるかもしれない。
お互いの身体が泥(なじ)んで、
言葉が許される間柄になったときに。
たとえば、こうした間。
たとえば、他者の身体との間柄。
身体表現のひとはどうやって言葉にしているのだろう。
どうやって言葉によってつかもうとし、伝えようとしているのか。
それはたとえば「型」ということもその問題にふくまれるのか。
ふりつもる問を、田村一行さんに聞いてみたい。
大学時代は、田村くんと呼んでいた。
日芸の文芸学科は女性が多く、ぼくらのゼミでは田村くんとぼくしか男性はいなかった。
あのころ
田村くんは抽象的な戯曲を、
ぼくは自己陶酔に満ちた批評を書いていた。
あれから10数年。
保育者として、舞踏家として、出会い直しの春。
程よい緊張にみちた、サタデーナイト。
http://www.kokuchpro.com/event/8838dd901ab95d60761b3f42ae6da673/
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?