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「青山誠と学ぶ保育基礎講座ほいくきほんのき」に寄せて その6〜対話の初心

「青山誠と学ぶ保育基礎講座〜保育の読む、書く、見る、対話する」に寄せて。
今回は、対話の初心。
対話って技術いろいろあるけれど、実は始まる時点で9割決まっちゃってるかも……というお話。


いまなにかと話題の子どもの対話。やってはみたものの、むずかしい!という悲鳴?があちこちから寄せられてます。
それで私のところにも、対話の実際やその技術、コツについて教えてくれないかというご依頼をいただくことも多々あります。

子どもとの対話、ミーティングの実際については別のマガジンにまとめてありますので、ぜひそちらをご覧ください。
ミーティングの歴史や、ステップ(段階)ごとの解説、技術などについて詳しく書いています。

ただ、実際は、元も子もない話ですが、
こうした段階にくぎって、技術をお伝えしても、
そもそも子どもとの対話は始まる時点で9割がた、うまくいくかいかないかが決まってしまっているように思うのです。

それはずばり、おとなと子どもの関係性、です。
対話ですから、子どもが本音を言ってくれなければ始まらない。
でも、保育者と子どもとの関係性が本音を出してもいい間柄になっていなければ、当然、対話はそもそもの始まりから成り立ちません。

ではどうしたらそういう間柄がつくれるか。
ここは、言葉というものがどのようにあらわれてくるのかを見ていくと、案外簡単に紐解いていけます。

前回のnoteでお伝えしたように、子どもは自分の気持ちを言葉だけではあらわしません。小さければ小さいほど、からだまるごとつかってあらわします。それがあるときから、「言葉でも」自分の気持ちを伝えられるようになり、また伝えたいと思うようになります。

つまり、あらわしかたが変化していく、というだけなのです。
だから子どもがまだ言葉以外の表現で自分をあらわしているときに、それをたっぷり受け止められているかどうかが、保育者と子どもとの間柄の鍵となります。

おとなは行動を止めただけと思っても、
子どもからしたら、行為であらわしている気持ちを評価されたように感じてしまいます。
(もちろんこれは、子どもの行動をなんでも止めないほうがいい、という極論にはなりません。でも、また同時に、乳幼児がありったけ行為してもなんてことないと私は思いますが)

なんでも「だめだめ」言われて、自分の気持ちに寄り添ってくれたことのないおとなのまえで、子どもは自分の気持ちを言葉であわらそうとするでしょうか。
おそらく、「せんせいはなんていったら、いいよ、っていってくれるんだろうか」「せんせいは、なんていったら、やめなさい、っておこるんだろうか」と、子どもは自分の気持ちよりも、先生という他者からの評価をまず気にしながら自分の気持ちをだそうとするでしょう。

そこに本音を出し合える関係性はありません。
対話のもととなるのは、
自分をありったけだしてもだいじょうぶ、という安心感です。

黒板を背に背負ってなにかを教えてくれる人、
その教えたことの理解度をテストという形で測り、評定を下す人、
そうした「先生」のイメージのまま、椅子を丸くして、「さあ、どうぞ、なんでも聞くから言ってごらん」といっても、
自分を評価の対象としてみなしいる人のまえで、子どもは自分をあらわそうとはしないものなのです。

基礎講座の対話では、具体的な事例をあげながら、
子どもとの対話を「まず始めるときには」、
・どこからとりかかったらいいか
・なにに注意を払っていたらいいか
・具体的にとりかかりやすい話題
・みんなが悩む、対話の終わり方
などを解説していきたいと思います。

もう少し踏み込んで、具体的にステップごとに学んでいきたいという方は、
フレーベル館さん主催のミーテイング勉強会へぜひお越しください。
ステップごとにわけての解説、事例検討なども行います。

さて次回は、対話っぽいのやめませんか?

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