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「子どもたちのミーティング」を出した頃04

「いやよ」
愛子さん(柴田愛子さん)は、あっさりとそう言いました。

私はひと夏かけて書き上げた原稿をまだ手に持っていて、それを愛子さんに渡す間すらありませんでした。

すっかり有頂天になり、もう本が出来上がったかのように錯覚していた私は、愛子さんの予想外の返答に固まってしまいましたが、思い返せば愛子さんのその返答はミーティング本を作ろうと思い立った時に、最初に危惧していた通りの返答だったのです。

「なんでですか」
アホみたいな一言目でしたが、書き上げた原稿をそんなにすんなりあきらめきれず、私は一応聞いてみました。

愛子さんの返答は予想していた通りのものでした。
ミーティングというものをみんな見たことがない。
見たことのない人は文字で読んでもその風景や温度感がわからないから、きっと誤解する。
子どもを座らせて何やってんだとか、会議みたいなことさせてとか、いろいろな誤解を生むと思う。

正確な言い回しは忘れましたが、おおよそ愛子さんの言い分はそんなことだったと思います。

今ではサークルタイム(子どもの対話)を行うところも増え、「車座になって何かを語り合うのだろう」とその風景を多くの人が思い浮かべてくれるはずです。

でもその当時、そのような実践が開かれていることはまれでした。りんごの木のミーティングは、私が入った当時すでに長い実践の積み重ねがありましたが、外には出ていませんでした。

先行事例としては、伝え合い・語り合いの保育実践というものがあり、私も本ではその実践に触れていましたが、映像などでは見たことがなく、「風景や温度」は本を通してあれこれと推察するほかなかったことも確かです。

そして私が文字から「風景や温度」を推察できたのは、異なる実践とはいえ、ミーティングを自分でやっていたからかもしれません。

だから、愛子さんの危惧は妥当というか、おそらくその通りになるであろうことは私にも想像がつきました(そして後日、部分的には本当にその通りになったのです)。

そして実践を開き、保育の背景や理念の異なる保育者たちと対話にのぞむ、ということがどのような厳しさや厳密さを要求されることか(それは楽しいことでもあり、また実践はそのように開かれてこそ実践たりうる、と今は思うのですが)、当時の私には見えていませんでした。

私は納得がいきませんでした。口がへの字に曲がっていたと思います。私がいくら納得がいかなくても、ミーティング本は私の実践と、愛子さんとの対談がセットになった企画です。当の愛子さんが「ヤダ」と言っている以上、前に進む可能性は糸くずほども見当たりませんでした。

沈黙。沈黙。沈黙。
しばらく重苦しい沈黙が続きました。

「愛子さんさぁ」
本多さんが口を開きました。
本多さんはりんごの木の出版部の編集長で、かつては学研の名編集長として数多くの人を育て、当時は鬼のように厳しかったらしいのですが、私が出会った頃はニコニコとしていることの方が多かったように思います。

とにかく、その本多さんが口を開きました。
「気持ちはわかるけど、まずはこの原稿読んでみてから考えたら。読まないで、っていうのはないでしょう」
それで愛子さんも、まあ、そうね、じゃあとにかく読んでみる、と言ってくれました。

私は首の皮一枚つながったという思いと、自分が書いたものを愛子さんに読んでもらえるうれしさで、力んでいた体から力が抜けていくのを感じていました。本多さんのこの時の一言がなかったらきっとミーティング本は存在していなかったことでしょう。

数日後、「あおくん、ちょっと」と本多さんに呼ばれて、りんごの木の編集部に行きました。
その時の光景をはっきりと覚えています。
扉を開けると、愛子さんがなぜか床に座っていました。その前には、私が書いた原稿がバラバラと置かれていました。

「うん、これはおもしろい」愛子さんが言いました。「これを出さないっていうのは、確かにもったいないわね」

本多さんが私にニコニコ微笑みながら「よかったねぇ」と言いました。
まだ事態が飲み込めない私に、本多さんが念押しのように言いました。
「本にしましょう!」

突然の思いもよらない展開に、私はボソボソと「ありがとうございます」とまるでうれしくもなさそうに小さな声で言いました。それが精一杯だったからです。

こうしてミーティング本は正式に企画として動き始めることになったのでした。

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