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真理を凌ぐもの

哲学者とは「真理を愛する者」のことです。つまり哲学者であるためには、誰よりも博識である必要はなく、ただ単に「真理を愛する、知を愛する」という意志さえあれば良いのです。

ここで意志と書きましたが、それは「知を手に入れたい」「真理を手に入れたい」と漠然と思うことではありません。日本人は、そもそも「意志」を知りません。願望と意志の区別がつかないのです。サッカーのワールドカップをソファで見ながら「メッシみたいになりたいな」と「思う」ことは「意志」ではありません。意志は、行動の背後にあるものです。つまり行動に反映されるのが意志なのです(時には、それを阻む何かがあったりしますが)。メッシになりたいという意志を持つなら、それには行動がともなっているはず。何も妨げるものがないのに、行動を起こしていないのであれば、それは意志ではありません。

哲学者が、「私は真理を愛する」という意志を持つならば、それは行動を伴わねばなりませんし、行動が伴っていないということは、それが意志ではないということです。

私が主張している「論理的には、「無ではない」が第一の真理である」という命題は、論理的に瑕疵がありません。事実、それをちゃんと論駁した学者は一人もいません。しかしそれを肯定する学者もいない。否定できないのに、肯定しないのはなぜなのでしょうか。

哲学者を自称している人々は、なぜ、私の主張に批判もしなければ、賛意も示さないのか。

私の議論は、これまでの哲学の議論とは、まるで方向性が違います。したがって、従来の思考の枠組みで思考する人には、そもそも「評価が出来ない」。彼らが今まで培ってきた評価軸が通用しないわけです。つまり私の議論を認めるには、これまで培ってきた自分の思考を、一端投げ捨てねばならない。ハイデガー研究やデカルト研究だとかで積み上げてきた自分の仕事を、一端放り投げねばならない。しかもこちらの方が、どうやら真理らしい……。

真理を目の前にしても、なぜそれを真理と認めないのか。真理よりも、これまでの自分が大事だからでしょう。私が、世界で評価されている大哲学者ならまだしも、そうではない。彼らの邪魔をしているのはプライドなのか、これまでの自分を愛する自愛なのか。それは私には分かりません。しかしどうやら彼らには、真理よりも大事なものがあるらしい。

私は哲学者なので、知的な人間は、真理を前にすれば、それを受け入れるものだと思ってきました。ところが現実は、そうではありませんでした。哲学アカデミズムの誰一人、この真理を受け入れません。この事実から明らかになるのは、哲学研究者と呼ばれる人々のほとんどが、実は、「真理よりも大切な何か」を持っているということです。「何よりも真理が大事」ではない。

私は、現代が知性を殺す時代だと考えています。それは、欲望にまみれた資本主義が悪いのではありません。それ以前に、学者も含めたほとんどの人間にとって、「真理は二の次」だからです。

真理を第一と考えていない人間に、いくら真理を語っても通用しません。これは、残念ながら、知性の問題ではないからです。

「真理が何よりも大切」という精神が、古代ギリシアに生まれたのは奇跡です。そして、その精神を受け継いだ者は、これまでの人類の歴史の中でもごく少数でしょう。一つの時代に、一人いるかいないか。

知性は滅びかけています。とはいえ人類が生き延びる限り、そこに哲学者は生まれるでしょう。真理は、そういう人々の間でのみ語られ続けるのでしょう。


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