不文律的な、空気的な。
香港や台湾について話しにくい
いくら私が一年半くらい中国語を勉強していて、中国人の友達と定期的にチャットしていて、ある程度中国語で彼らと会話することができる状況でも、やはり最近の香港とか台湾について大陸の中国人と話すことには気を遣う。
「大陸の人と、台湾や香港の人はちょっと微妙な関係なの?」とわざと意地悪な質問をすると、「日本の内地の人と沖縄の人はどうなの?」といわれる。言葉を濁される。中には明らかに嫌悪感を示す人もいる。「なんで日本人は台湾を一つの国のように言うのか。」「香港の騒動に関する西側の報道は公平ではない。」
難しい。
西側の報道が公平ではないのは分かる。でも中国政府の言うのも同じように偏った情報。これは情報戦争で、どちらが正しいというものではない。どちらが勝つかという話だ。ぜひ、第三者的視点から中国の大陸人と話してみたいという希望が私にはある。
しかし、現在進行している香港や台湾の事象に対して、当事者である中国人に対して、全くの第三者視点からの意見を探ろうとすることに高い壁がある。
こういう問題について話せるようになるために中国語を勉強し始めたというのもあって、悔しい。
あいちトリエンナーレの脅迫ファックス
「要らねえだろ史実でもねえ人形展示。FAX届き次第大至急撤去しろや。さもなくば、うちらネットワーク民がガソリン携行缶持って館へおじゃますんで~」
と手書きのFAXを送ったのが59歳にもなる会社員だそうだ。おいおい、おじさん、、、何やってんだ。ガキみたいなことしてんじゃないよ。
この事件の原因となっている日本と韓国の関係悪化について、これも当人である日本人や韓国人には、どうしても客観的に事象を顧みるというのは限界がある。メディアも反応的な動向に油を注ぐ。「無視」がいいというのはわかっている。しかし難しい。スマホやテレビを通じて大量の偏った情報が流れてくる。無意識的な無視はほぼ不可能だ。意識的に無視をしなければいけない。
そもそもアートは人間を自由にさせるもの。日本人とか韓国人とかのナショナリティや歴史観にがんじがらめになった人を解きほぐすのが芸術の機能だ。とすれば、あの慰安婦少女像を模した作品は、アートとしての伝え方の工夫がまずかったのかもしれない。作者の意図は分かるし、アートを規制する発想にはもちろん嫌悪を覚えるのは大前提で。
政府と個人は別人格ではないか
「政府の見解を支持しなければ非国民だ」的な空気を通底に感じる。政府の見解と個人の見解は当然違っていい。「日本政府の考えはわかった。韓国政府は違う認識でくるだろうけど、なんとか日本の国益にかなう形で落としどころを見つけてくださいね。」という気分。重要なのは、自分の頭で考えること。それを放棄したら、それは東アジア的な集団主義の、不文律的な空気的な「忖度」の圧力に絡めとられていく。
もっと自由でいいのではないか
なぜ人は執着するのだろう。なぜフラフラとしていられないのだろう。なぜそれ程まで韓国が嫌いになれるのか不思議だ。私はそれほど好きでもないし嫌いでもない。美味しい韓国料理を食べに旅行には行く。なぜそこまで韓国に執着するのか。政府の立場なら分かる。でも一国民がなぜそこまで政府になったかのように執着するのか、理解できない。政府とあなたは別人格だ。
もしくは、執着が人間の本性ならば、なぜその執着を面白おかしく笑いやアートに昇華できないのだろう。なぜそこの捕らわれたままなのだろう。リベラルアーツが人間を「自由にする教養」ならば、足りないのは本当にそれだ。固執しすぎ、執着しすぎ。もっと適当でいい。もっと気楽でいい。香港市民が民主の未来を懸念してデモをするのとは全然違う。
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