プレゼンテーション1w

「英語化は愚民化」レビュー②

前回のnoteの続き

英語教育で壊されるもの②:モノづくりを支える知的・文化的基盤

英語化を推進する人々は、日本の経済的強さの復活のカギは一層のグローバル化にあり、その具体的方策の一つとして英語化があると指摘する。しかし、冷静に考えてみれば、日本よりも英語が堪能な人がいるフィリピンなどのアジア諸国はさほど経済力を備えていない。常識的に考えて、経済力のある国とは「英語力のある国」ではなく、「自国の言葉をしっかり守り、発展させて国」と言った方が良いだろう。
(中略)
日本では、明治以来、西洋の自然科学概念を日本語に訳してきた。そのおかげで、日本人にとって世界的水準で思考するということは世界で一番深く思考するということであり、英語で思考するということではなくなった。
(中略)
日本語を守り、外来の知に学びつつ日本語を豊かにすることによって近代化を図ってきた果実なのだ。

私の考察

世界最先端のサイエンス(科学)が日本語訳されたおかげで日本のサイエンスの水準が上がったという事。これは紛れもない事実でしょう。原著を読む時間と労力を考えれば、日本語訳を読む方が深く思考できる。多くの日本人が世界の英知に接続できるようになったのは翻訳のおかげです。つまり思考する母語をおろそかにしてはいけないということが著者の一番の主張であると認識しました。それには全く同意します。多くのノーベル賞を輩出するまでに至った日本のサイエンスは、明治期以降の近代科学名著の日本語翻訳がその基礎になったのは事実です。

しかし、それは繰り返しますが、母語で思考する力をしっかり身に付けましょう、という意見であり、それ以上でも以下でもないと思います。第二言語を身に付けることが母語の能力を毀損するという話は聞いたことがありません。また、原著を読むスピードが上がるように英語を習得すればいいという話もあります。母語の能力までは第二言語の能力を上げることは論理的には可能です。つまり母語の論理的思考の水準を上げることは非常に重要。加えて、母語ではもちろん、第二言語でも高水準に思考できるのならば、それが最高ではないでしょうか。もちろんレベルの高い話ではありますが。このあたりの考えが理由となって、私は河野外務大臣のような英語が惹かれます。日本語ネイティブとして語学のロールモデルだと思う。

あと、引用の最後の部分ですが、確かに明治期に外来の言葉を日本語に翻訳するときにつくられた言葉はいくつかあります。社会、放送、教育、個人、権利、美、などは江戸時代まではなかった日本語です。明治時代にその価値観が西洋から輸入され作られた日本語。現代の私たちの価値観を支えている日本語です。しかし、最近は外来語をカタカナでそのまま使うケースが増えている事も指摘しておきたい。カタカナ外来語は語学において障害になり、良いことが一切ないと思います。言語関係者の方は、新しい日本語づくりにもっと励んでほしい。その点中国は、新しい外来語もすべて漢字を使って日々創作しています、例えばスマートフォンは「智能手机」、パソコンは「电脑」、サッカーは「足球」などと翻訳語が生み出されています。

英語教育で壊されるもの③:良質な中間層と小さい知的格差

日本のおいて知的格差は小さいことはOECDが実施した「国際成人力調査」でも明らかになっている。この調査は成人は一般的な社会生活を送るうえで必要な能力や学力を測ったものだ。OECDが世界二四の国と地域の調査結果を比較したところ、日本は「読解力」と「数的思考力」で他国を上回り一位だった。特に読解力は著しく、日本の単純作業従事者のほうがアメリカの高技能作業従事者よりも読解力が高い。

私の考察

う~ん、あんまり私は理解できないですね。この引用箇所の後に、「日本語には漢字があって一見して意味が分かるから、読解する能力が高い」と書いてあります。しかし、なぜそうだと「良質な中間層と小さい格差」になるとかが良くわかりません。

確かに、今の英語教育だと、英語を話せる人とそうでない人の格差が広がるでしょう。機会の不均衡がまず現れて、結果として収入の格差につながっていくでしょう。この著者は「英語化の推進」と「過度な新自由主義の勃興」を重ねて見ているように思われます。「格差の拡大」は新自由主義の帰結として良く言われることですが、英語教育はこの様なイデオロギー論争とは一線を画して語るべきだと思います。

もし、反グローバル主義・孤立主義の立場をとったとしても、それでは英語を学ばないかといえばそうではありません。むしろ重要になるでしょう。海外の情勢を読み解き、海外に日本の価値を売っていくためには不可欠な手段です。イデオロギーのレイヤーよりも、言語のレイヤーの方がもっと底にある感覚です。言語政策によってイデオロギーが影響されることはあれど、イデオロギーによって言語政策を決めるべきではないし、それは不自然だというのが私の見解です。

つづく




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