『ヒトラーとナチ・ドイツ』(新書)感想

先日『シンドラーのリスト』を初めて拝見した。ホロコーストをみごとに描いた同作が、20世紀映画の金字塔であることに疑いはない。この作品に触れて味わった、得も言われぬ気持ちを、知識で補強しておきたい。

新書・教養シリーズ 4冊目。ヒトラー、および彼の率いたナチ党の行いを、簡潔かつ冷徹な文章で見つめた良書であった。2015年初版。


本書内「はじめに」には、次のようにある。

ナチ時代のドイツで国家的原理となったレイシズムと反ユダヤ主義は、やがて第二次世界大戦のもとでユダヤ人大虐殺(ホロコースト)など未曾有の大規模ジェノサイドを引き起こし、「文明の断絶」ともいわれる「アウシュヴィッツ」へと帰着した。
なぜこのような事態が生じたのか。どうしてドイツの人びとは、あるいは国際社会は、この動きを未然に防ぐことができなかったのであろうか。二十一世紀の今日、人権と民主主義が人類にとって最も尊重・擁護されるべき普遍的な価値・制度であるとすれば、それらが容赦なく粉砕された近過去の事例に目を向けることは大きな意義があるだろう。

まさに、自分が『シンドラーのリスト』を見て感じた疑問はここにあり、本書を通読することで、むろん完全ではないにせよ、「答えのようなもの」の一端が得られたように思う。


ヒトラーは何を目指したのか

「ナチ」とはドイツ語の "Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei” 、日本語では「国民社会主義ドイツ労働者党」などと訳される政党の、頭の読みを取り出した呼び名である。”National"、英語の「ナショナル」は、ドイツ語読みでは「ナツィオナル」になる。ナチ党、ナチ時代、ナチ・ドイツ、などと接頭語的にも用いられるが、「ナチ」には俗語的・蔑称的なニュアンスがあり、略称としてのNSDAP、NSなども用いられる。日本語では「ナチス」と複数形も定着している。

ナチ党を率いてさまざまな所業をなしたヒトラーであるが、我々はどの程度、彼の行いを把握しているだろうか。彼は何をしようとしたのか。「ドイツの独裁的指導者にしてユダヤ人大量虐殺を首謀した大悪人」といったイメージがあまりに強く(そしてそれは正しく)、具体的な施策の中身までご存じの方は多くないのではないか。

彼の主義や行動原理を端的に表現すれば「多様性の否定」ではなかろうかと、本書を読んで感じた。ヒトラーの発想はこうだ。「ドイツは、ドイツ人の両親に生まれ、勤勉で健康で秩序を重んじ、自身も優秀な子孫を生み育てる『純血』のドイツ人のみで構成されるべきである」。

この理想の実現を妨げる人たち、たとえば難病患者、精神病患者、性的マイノリティ、アルコール依存者、犯罪を繰り返す者、非行少年、ホームレスの人などは、法律に基づいて適切に殺害された。ガスによる安楽死や、収容所における過酷な強制労働によって命を落とした。この理想論に反対を唱える人たちも同様の運命をたどった。

外国にルーツを持つ者はまず国外退去を求められた。ユダヤ人でさえ、はじめからいきなり収容所送りにされていたわけではない。しかしナチ・ドイツの支配地域が拡大するにつれ、扱い切れなくなった「外国人」もまた多くが殺害された。

女性の社会進出は制限され、結婚後は退職するよう定められた。

多様な意見を聞く必要がないため(多様な意見を聞いたらこのような理想が通るはずがないが)、ナチ党以外の政党は解散させられ、新規の結党は法律によって禁止された。ヒトラーは首相と大統領を兼ねた「総統」に就任。法案は彼が承認した時点でただちに発効し、議会はそれを追認するだけの機関におちぶれた。憲法に反してもよいという法律が、法律に基づいて策定された。憲法に定められていた各種の基本的人権は、法律に基づいて停止された。


なぜヒトラーを止められなかったのか

反ヒトラー・反ナチ活動は小さくなかったはずだ。そう信じたい。が、その動きはヒトラーによって、ひとつずつ、確実に芽をつまれた。

反対派の政治家・運動家は、公的・私的なスキャンダルによって失脚するか、ある日暴漢に襲われて死んだ。

あやまった行いをした国民は「排除」されたが、一方で優秀でまじめなドイツ人は重用され出世した。多くのドイツ人は、「ドイツ人の両親に生まれ、勤勉で健康で秩序を重んじる」ドイツ人であったのだろう。わずか数パーセントにも満たないマイノリティの不幸は、見て見ぬふりされた。それどころか、街からガラの悪い輩や不衛生なホームレスなどが減って喜ばしいという声もあった。

(多少の数のマジックはあったものの)失業率は短期間で改善した。(多少の誇張とウソはあったものの)対外戦争の勝ちが続いた。大国フランスを一気呵成に攻略した。第一次大戦に敗北し、国際社会から多額の賠償を課されたドイツ国民は、少なくとも形式上、ヒトラーとナチ党を支持した。

気付けばドイツは、ヒトラーと彼の忠実な側近によって完全に掌握され、もはや引き返すことはかなわなかった。


ユダヤ人の大量虐殺

純血のドイツを目指したヒトラーの物語は、理想の実現を見ぬまま、ユダヤ人の大量虐殺と二次大戦の敗北をもってエンディングを迎える。なぜヒトラーはユダヤ人をかくも嫌ったのか。分からないし、分かりたくもないが、欧州におけるユダヤ人迫害の歴史は長く、そのひとつの決着が、このホロコーストであったのだろう。

上述の通り、ユダヤ人虐殺に先立って、マイノリティの人などの組織的な殺害が始まっており、ここで培われた大量殺人のノウハウ(最悪なノウハウだ)が、ホロコーストに転用された。

もっともヒトラーは当初、ユダヤ人をドイツ外に追い出すことを考えていた。ソ連を攻略できれば、東に広大な領域を確保できる。ここにユダヤ人を追いやる。あるいはフランス領マダガスカルにユダヤ人を送り込む。しかしこれらの案は、戦況の悪化に伴い断念された。

世界各国は迫害されつつあったユダヤ人の受け入れを検討したが、国内世論の反対もあって十分な受け入れを実現できなかった。各国代表が集まったエヴィアン会議でも、各国はユダヤ人に同情を示し、ナチ・ドイツの所業を非難しつつも、ユダヤ人受け入れの議論になると言い訳に徹した。

邪魔だが追い払うことはできない。それなら殺してしまえばいい。あまりにおぞましい思考だが、すでに人権・人命を軽視していたナチ・ドイツは容易にその結論に達した。虐殺は現場レベルでなし崩し的に始まり、ヴァンゼー会議によってその方針が確認された。以後、ドイツの敗北まで、輸送・殺害・遺体処理のプロセスを効率的に実践する国家組織的大量殺人機関が働き続ける。



ふぅ……思った以上にやばかったな、ナチ・ドイツ……

とはいえ、もしも自分が、ナチ・ドイツ下において「ドイツ人の両親に生まれ、勤勉で健康で秩序を重んじる」ドイツ人として生活していたとしたら、ヒトラーおよびナチ党に反旗を翻せた自信などみじんもない。


我々近代国家に生きる地球市民は、ナチ・ドイツの蛮行から決して目をそらさず、冷静にその歴史をひもとくことで、再び混沌へと回帰しつつある目下の世界に、理性と英知の一撃を与えなければならない。


この記事が参加している募集

#読書感想文

189,141件