恋とピアノと私 #5
伴奏、うまいね。
静かに放たれたその言葉は、やさしく自分を包んで守ってくれる。
「誰かに言われた忘れられない一言」をしまう記憶の引き出し。
みんな持ってる。自分にもある。
言った相手が、言ったそばから忘れるような些末な物言いでも、自分にとっては心に深くうがたれて消すことのかなわない、何度も何度もその場面を思い出してしまう、そんな呪いの言葉がいくつか収められている場所だ。
舞い上がるようにうれしい一言。
深く傷つけられた、悲しくてつらい一言。
あふれるほどたくさん入っているかもしれない。
それとも少ししか入っていない?
少なくても恥じることはない。大切なのはその多寡ではない。
忘れられない一言。それをどう生かすか、利用するか、だと思う。
「伴奏、うまいね」
自分のピアノを支えてくれるのは、こんな短いセリフ。ピアノを好きでずっと続けていられるのは、たぶんこの一言のおかげだ。
うれしい言葉ではある。もちろん。間違いない。演奏を褒めてもらえたわけだから。でも、ただうれしいだけではない。うれしいというだけで、片付けたくない。
自分にとっては、新しい気付きを与えてくれた言葉なのだ。
自分は伴奏が得意なのかもしれない。伴奏が好きなのかもしれない、と。
「〇〇くんの伴奏、弾きやすい」
お褒めの言葉はそんなふうに続いた。
鍵盤から手を下ろし、斜め上に目線を上げると、興奮気味の彼女の表情がそこにある。
少し肌寒い部屋の中でも、頬をほのかな紅色に上気させた彼女からは、情熱の湯気が立ち上るように見えた。
管楽器は息を使う。全身を使う。一生懸命に演奏すると、全力疾走した直後みたいに体が温まるのだ。
彼女はぱっと相好を崩したが、照れたのか、すぐに楽譜に目を戻した。
「で、ここのとこなんだけどね」
楽器を下ろし、鉛筆を手に取る彼女。熱心だ。かっこいい。
「あ、うん」
自分は言葉少なに返事を返すが、心中は決して穏やかでない。
興奮しているのは、こちらも同じだった。
小柄な彼女が、こんなに力強く、熱のこもった演奏をするなんて。窓ガラスが震えるんじゃないかというような空気の振動を感じた。鼓膜はまだ驚いている。
吹奏楽部の演奏なら式やイベントで何度か聞いた。でもソロで、面と向かってその本気の息遣いに向き合ったのは初めてだった。
バーナーであぶられるビーカーの底から、ふつふつと生まれる気泡のように、熱意は沸き上がってとどまるところを知らない。
合奏が好きだ。誰かと一緒に演奏するのが好きだ。
和音の響く瞬間が何より好きなんだ。
感謝した。素敵な合奏の機会を与えてくれた彼女と、自分を伴奏者に推してくれた先生に。
「金賞、獲っておきたいんだよね」
彼女はそう言った。
あたたかい飲み物にふっと息を吹きかけるように。やさしく、さりげなく。
中学3年、秋。音楽室に夕闇が迫る。
(続く)