見出し画像

ユーフォと努力と。

マクドナルドの抹茶パイと抹茶フラッペを頂く宿命にある人。
こんにちは。まっちゃです。

今日は前回に引き続き私の価値観の話をば。
またまたひん曲がった人間の戯言になってしまう気がしていて数年後自分で見返した時にどう思うのかなとか考えたりもしていますが。


皆さんは、「響け!ユーフォニアム」という作品をご存知でしょうか。
今春からTVアニメ3期が放映される、京アニが手がける有名吹奏楽作品となっております。

私は今冬、本作品の1〜2期映画を見ました。受験期なのに。
かなり面白く、一気に見てハマりました。
まだご覧になっていない方はAmazonプライム等で見られるので是非。

ですが、この作品を見て一つ引っかかる点が私にはありました。
私にとってこの作品、あまりに重すぎたのです。

では、何故そこまで私のメンタルにずっしり来たのか。
答えを出すには、私の経歴をまず振り返る必要があります。

私は小学生の頃、サッカーを6年間習っていました。
子供に何かしらの習い事をさせたいと思っていた母親と、元々自身がサッカーをずっとやってきた父親の影響により、
幼少期から英才教育と言わんばかりにサッカー沼に嵌められていた私は、その場のノリで小1からサッカーを習うことを決めました。

今振り返れば、あの選択が間違ってたとは言えないと思います。
6年間続けたおかげで、運動神経はまるでないものの、体育の授業における多少の運動はギリギリついていけるくらいにはやれましたし、
メンタル面等においても6年間続けたメリットは大きいなと感じています。

しかし、
当時の私はすぐ飽きてやめたがっていました。
泣き虫だったこともあり、同級生に多少のちょっかいをかけられては半べそをかいたり、
監督にはあれこれ言われすぎて嫌になってつまらなくなってしまったり、
純粋に上手くならずにどんどん周りに抜かれていく現状にすぐ飽きてしまいました。
正直、小3くらいからまるでやる気がなかった覚えがありますが、なんとか惰性で6年間続けました。

"サッカーは私に向いていなかった"
と感じた当時の私。
中学生になり、土日を持て余すのもなんか違うと感じ始めていた私は、
小5から趣味にしていた競技かるたに手を出しました。
近場のかるた会に通って、週1で試合をして。
今度こそ楽しく続けられるかなと見積もっていました。

しかしそんな甘くはないです。
競技かるたはサッカーと違い個人競技なので、誰かと試合をこなしながら成長していかないといけないわけですが、
普通に年下に負けるスポーツです。これ。
若ければ若いほど、瞬発力と耳の良さが発揮されるので、競技かるたは実は小学生とかでもめちゃくちゃ強い人がいます。
私はそれに折れました。
結局2年間やって、最後の年は某感染症の影響でまともに練習も行えず、結局中学卒業と同時にやめました。

"競技かるたは私に向いていなかった"

果たしてそれは本当だろうか?

中学生になり、
競技かるたと共に始めた趣味があります。
音ゲーです。

小6の秋頃から急激にハマりだして、
中学生の私は手持ち少ない金を持ってゲーセンに度々向かっていました。
高校生になっても、音ゲーは1番に据える趣味で、
ずっと没頭していました。

ですが、
大好きだったはずの音ゲーでさえ、
飽きが来てしまいました。
周りの成長と自分を見比べた時の差や、
金銭面での問題、
度々訪れるスランプ、
しょうもないミスプレイ等、
どんどんメンタルがやられていきました。

"音ゲーは私に向いていなかった"

違う。
私が向いていないことはサッカーでも競技かるたでも音ゲーでもない。

もう一度、振り返ってみます。

サッカーに関しては、自主練というものをあまりしませんでした。
そりゃ周りとの差がつくわけです。
競技かるたに関しても、自主練をあまりせずに普段生きていました。
また、サッカーにも競技かるたにも共通しますが、
自己の振り返りを全く行っていませんでした。
所謂自己反省会とやらをまるでせずに、ただただ特定の場所に行って練習をこなしてはたまに試合に出るというのを繰り返しているだけでした。

音ゲーはどうか。
音ゲーに関しては、前の2つよりかは自己反省等を行っていたように感じます。
では何が問題だったか。

高校生になって、
私はバイトをしませんでした。
別に禁止されてるわけでもなかったですが、
「面倒」が勝ってしまったのです。
それで金欠だのなんだの言って諦めていたわけです。

じゃあ前の2つにおいてはどうか。
別に道具は揃っていたはずです。
でも私は、練習をして上手くなりたいという感情より「面倒」が勝ってしまっていたのです。

私が向いていないのは、
サッカーでも競技かるたでも音ゲーでもなく、
「努力すること」だったのです。

実際、競技かるたにおいては、
周りより耳が良いと褒められていましたし、
音ゲーに関しても、
少ない回数で記録を出していたりして、友人には成長早すぎだと言われたりもしていました。
向いていないなんてことはおそらくなかったと思います。

私に何が足りなかったか。
それは「努力量」であり、もっと言えば、
物事に対する「熱意」だったのだと思います。

前回のnoteで、実はこんな記載をしています。

恋愛的価値観において、
私は冷めているという記載をしました。
それは恋愛以外のことも同じだったのです。

私は人だけでなく、
物事に対しても冷めている。
まぎれもない事実です。誰かにそう言われても私は否定しません。

もう1つ、私の話をします。

私はあまり泣かない人間です。
というか滅多に泣かない人間です。
最後に泣いたのがいつだか思い出せないくらいには泣いていないです。

例えば、大会。
沢山頑張ったのに、悔しい結果に終わってしまった時。
例えば、何かの作品を味わった時。
その作品が感動もので、かなり涙を誘うシーンがあった時。
例えば、卒業式。
大切な誰かとの別れ。大切な時間との決別。

私は微塵も泣けない人間なのです。薄情と言え。
中学の卒業式も、高校の卒業式も、
サッカーで悔しい負け方をした時も、競技かるたで惨敗した時も、
まるで泣けなかったのです。
それは何故か。

それもおそらく、
私が冷めている人間だからだと思います。
熱意があれば、その分悔しさだって一入だと思いますし、
努力していれば、その分何かを成し遂げた時の達成感は何にも変え難いものだと思います。
作品に対しても、その作品への愛情、熱量があれば、感動して涙を流すのは当然と言っていいと私は思います。
実際そういう人を私は散々見てきました。
でも私は努力から逃げたし、熱意なんて持っていなかった。
ただそれだけのことです。


さて、本題に戻ります。
何故、「響け!ユーフォニアム」という作品が私のメンタルに重くのしかかるのか。
ここまで文章を読み込んだ貴方なら、薄々気づいているかもしれません。

私が用意した解は、
「私が今まで逃げてきた努力や熱意が私に向かって十二分に注がれてしまうから」という解です。
ここまで読んだ貴方なら概ね想像出来た解でしょう。

この「響け!ユーフォニアム」という作品、
顧問の厳しさだったり、
部員達のいざこざだったり、
成長出来ない自分、報われない自分への葛藤だったり、
なんなら両親を巻き込んでのドタバタだったりがリアルチックに詰め込まれた作品なのです。
勿論、それを乗り越えて成長するというテーマの作品なので、起承転結の事情でそのシーンを省くと作品の面白さが激減してしまうのは理解しています。

でもそのリアルさは、
今まで私が苦手としてきて、今まで私が逃げてきた事情そのものに違いないのです。
起承転結の結で、結局成功してしまうのは大方目には見えているものの、それでも起承転の部分が私にとって辛すぎるのです。

私、高校の部活に関しては、
本当に楽な部活を選んで、
友人達とたまに集まって駄弁ってわいわいやるような活動だけしていました。

そういうこともあって、
運動部とか、文化部に関しても吹奏楽部等何かに向かって日々全力で打ち込んでる部活に関しては、
純粋に尊敬の念を抱いてしまうのです。
なぜなら私は努力することが大の苦手だから。
皆凄い。
これを見ている貴方も、凄い。
頭が上がりません。もっと自分を誇ってください。
仮に何も成し得てなかったとしても、努力して物事に向き合ってる自分に拍手を送ってください。
結果が出なくても、努力していることに意味があります。
本当に凄いです。胸を張ってほしいです。

先日、
吹奏楽部の卒業コンサートとやらに誘われて顔を出したりしました。
私は実際件の作品のおかげで吹奏楽音楽にも興味を持ち始めていた頃でしたし、
いい機会かなと思い足を運びました。

実際、奏でられた演奏はどれも素晴らしいもので、
どの曲も聴き入ってしまいました。
本当に凄かったです。来てよかった。

そして、最後の曲が終わった後、
卒業生への花束贈呈が行われました。
卒業式は皆大粒の涙を流し、
観客も感動ムードに包まれていました。

私が見てる景色は、件の作品の雰囲気そのものでした。
私が今まで避けてきたことを、まさか三次元の世界でまた味わってしまう日が来るとは思っていませんでした。

私は堪えられませんでした。
私が今まで逃げてきたものなのだから、私はこの場においてあまりに場違いすぎると強く感じたのです。
ましてや私は先述の通り泣くことさえ出来ない人間です。
いていいはずがないと、終演後急ぎ足でその場を去りました。

あの光景を味わっていいのは、
努力をした張本人と、努力を少しでも見届けた第三者であって、
私は努力を対して見届けていない挙句、自分自身が努力からずっと逃げてきた人間でした。
そんな私がこの場にいる資格なんてないと、自分で決めつけてしまったのです。
私があの場から余韻を無視して立ち去ったのは、言わば「努力への拒絶表明」だったのかもしれないと、今になって思います。

端的に言えば、
私が努力することを苦手にするがあまり、
他人への努力や熱意を過剰に感じ取ってしまうと、
今まで努力から逃げ続けたことによる罪悪感と後ろめたさで胸が苦しくなってしまうのです。
なので、終演後すぐ立ち去ってしまったのは、
その罪悪感と後ろめたさすらその場においていこうという拒絶表明でしかなかったのです。
努力した側が、私の行動の真意を知ると、おそらく怒りか悲しみか呆れのような感情に苛まれるかと思います。大変申し訳ない。本当にごめんなさい。

努力することを否定するわけでは全くないですし、
なんなら先述の通り、私は努力している人に対して尊敬の念を抱いています。
部活だけじゃなく、どの分野においてでも、
努力していること自体が素晴らしいし凄いと心底思います。
だからこそ、努力している第三者と努力から逃げた私を比べてしまって、結果私が劣等感だの罪悪感だのに勝手に苛まれていってしまうだけなのです。

母親からもよく言われます。
「あんたは何事に対しても中途半端なんだから、少しくらい何か一つに対して打ち込んでみなよ」と。
母親は私のことをよく見てるなと感じます。

将来の私が何を趣味にするかは分かりませんが、
きっとまた努力から逃げてしまうのだろうなと思います。
その度、周りからは勿体ないだとか飽きっぽいだとか冷たいだとか言われるのだろうなと思います。間違いないです。
そんな自分とどう向き合っていくか。そして、そんな自分を見てくれる人が物事に熱心に向き合って努力している時に、私は寄り添うことが出来るのか。
私の今後の人生における大きな課題です。


さて。
noteだけで私と接している人は、
私がただただ冷たい人間なんだなと思っている頃だと思います。
Twitter等で私と前から関わっていた人間は、
あまりに私の人間性が違うことにショックを受けてマイナス感情を抱いている頃だと思います。
逆に、私のことをここまで見抜いていた人間がいるのかが気になりますが。

noteは、私のありのままを書き記す日記として活用させていただいています。
私自身に、私を認識させる為に書いています。
嘘偽りはないです。
なので、これが本当の私です。
こんな冷たくて薄情な人間で申し訳ない。

今後ともよろしくお願いしますだなんて言葉は言わない方がいいかもしれないですね。
それでも私を見てほしいという気持ちの現れになってしまって、結局承認欲求ツールになりかねないので。
このnoteには、承認欲求なんてものは一切詰め込まずに、
ただただ私の感情を書き連ねていたいのです。
いいねが1つもつかずとも、私が書ければそれでいい。それで完結する。

それでもこうして見てくれている貴方へ。
いつもありがとうございます。

ではでは。🍵

この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?