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その5:俳句の万年筆

八年前に亡くなった俳人 星野 麥丘人(ほしの ばくきゅうじん)が第36回俳人協会賞を受賞した句集『雨滴集』には、

 ぺりかんは万年筆や年暮るる

「ぺりかん」と言われたら、もうあのペリカンでしかないので思わずほくそ笑んでしまう。
また句集『亭午』にも

 初句会万年筆の赤い軸

と、万年筆の句が収められている。 
麥丘人に限らず、万年筆の句というものは意外と多い。正岡子規の頃からペンやインクは俳句に度々現れる。書くという必要から日常を彩るアイテムとしてのペンやインクは欠かせない。
今も俳句を嗜む方だと万年筆を使われる方は多いようだ。同好のお仲間にも俳句を嗜まれる方がいるかもしれない。釈迦に説法なら御勘弁を。
毎度ながらの悪い癖が、万年筆と聞くと何処のメーカーだろうとついつい気になってしまうこと。先の麥丘人ならペリカンとはっきり出ているので、そうするとスーベレーンの赤軸だったのかな、なんて思いを馳せてしまうのだ。従来ではない妙な方向からの鑑賞となる。
ちょっと話は逸れて、ペリカンの万年筆を愛用していた作家と言えば、井伏鱒二か井上ひさしだっただろうか。井伏鱒二の『黒い雨』の中での「万年筆ぐらいな太さの棒の様な雨」は有名な直喩だが、使用していたのは知人から贈られた500NNの黒縞だという。雨にしては随分な太さだが伝わるものがある。
本来は表現するための言葉をしたためる道具である万年筆が、詩情を表現するアクセントという違う形で生かされるのは感慨深い。あ、この文章のタイトル『万年筆の徒歩旅行』も中原中也の詩『自滅』からの拝借であった。
詩人 J・L・ボルヘスが「言語とは美学的創造」と言ったように、この「万年筆」という名詞そのものがひとつの詩句となり、人々との暮らしの中で味わいを深めた言葉になって行ったのではないだろうか。
決して「万年筆」は俳句の季語ではないけれど、それを「万年筆」と名付けられたという想いと今日まで机上で果たしてきたその役割が、私たちの感性に月を愛でるように働きかけて来るのでしょう。

ちなみに、ドイツ語で万年筆を指す名詞は、男性名詞。万年筆の性別を問うなら男性ということになるのですが、それはほんの蛇足。

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